「動物化するポストモダン」 東浩紀 01年11月20日発行

  • いまだパソコン通信しかなかった八〇年代に始まり、現在まで、日本のネット文化の基礎はオタクたちによって築かれている。オタク系のウェブサイトや掲示板が多いというだけでなく、プロバイダのFTPサイト名にアニメキャラクターの名前があてられていたり、ワープロサイトや表計算ソフトの解説書の例文に何気なくノベルゲームの一節が紛れ込んでいたりと、その痕跡は陰に陽にあらゆる場所に確認できる。(P8)
  • いまから三〇年ないし四〇年前、日本、ヨーロッパ、アメリカなどの高度資本主義社会では、「文化とは何か」を規定する根本的な条件が変容し、それにしたがって多くのジャンルが変貌した。たとえば、ロックミュージックが台頭し、SFX映画が台頭し、ポップアートが台頭し、LSDとパーソナル・コンピュータが生まれ、政治が失墜し、文学が失墜し、「前衛」の概念が生滅した。私たちの社会はこの強大な断絶のあとに位置しており、したがって、現在の文化状況を、五〇年前、一〇〇年前の延長線上に安直に位置づけることはできない。たとえば、ミステリやファンタジーやホラーに支配されたエンターテインメント小説の現状を、近代日本文学の延長線上で理解しようとしても絶対に無理がくる。そのような断絶の存在は、専門家に限らず、多少ともまじめに現在の文化に触れている人ならば、だれでも感覚的に察知できることだと思う。現代思想や文化研究の分野では、その常識的な直観を「ポストモダン」という言葉で呼んでいるだけの話だ。(P15)
  • ここではとりあえず、六〇年代あるいは七〇年代以降、より狭く取れば、日本では七〇年の大阪万博をメルクマールとしてそれ以降、つまり、「七〇年代以降の文化的世界」のことをポストモダンと呼ぶのだ、と大雑把に理解してもらえばそれでいい。(P16)
  • オタク学入門』の最後の章は、「オタクは日本文化の正統継承者である」と題されている。これらの指摘はおもにオタクたちの消費行動に注目してなされているが、より内容に即しても、オタク系文化と伝統文化の連続性は随所で指摘されている。そのなかでもっとも有名なものは、おそらく現代美術家村上隆の主張だろう。彼によれば、七〇年代にアニメーターの金田伊功が達成した独特の画面構成は、狩野山雪や曽我蕭白らの「奇想」に連なり、また、九〇年代に原型師のボーメや谷明が先導したフィギュア造形の進化は、仏像彫刻の歴史を反復している。(P17)
  • 八〇年代以降のアニメを「オタク的なもの」「日本的なもの」としている多くの特徴は、じつは、アメリカから輸入された技法を変形し、その結果を肯定的に捉え返す事で作り出されたものなのだ。オタク的な日本のイメージは、このように、戦後のアメリカに対する圧倒的な劣位を反転させ、その劣位こそが優位だと言い募る欲望に支えられて登場している。それは明らかに、ラジオや自転車やカメラの小型化への情熱と同じく、高度経済成長期の国家的な欲望を反映している。そしてこのような欲望は、現在でも、岡田にしろ大塚にしろ村上にしろ、オタク系文化を高く評価する論者達の文章に共通して見られるものである。(P22〜23)
  • オタク系文化の根底には、敗戦でいちど古き良き日本が滅びたあと、アメリカ産の材料でふたたび擬似的な日本を作り上げようとする複雑な欲望が潜んでいるわけだ。(P24)
  • 当時のポストモダニストが好んだ主張は、要約すればつぎのようなタイプのものである。ポストモダン化とは、近代の後に来るものを意味する。しかし日本はそもそも十分に近代化されていない。それはいままで欠点だと見なされてきたが、世界史の段階が近代からポストモダンへと移行しつつある現在、むしろ利点に変わりつつある。十分に近代化されていないこの国は、逆にもっとも容易にポストモダン化されうるからだ。たとえば日本では、近代的な人間観が十分に浸透していないがゆえに、逆にポストモダン的な主体の崩壊にも抵抗感なく適応することができる。そのようにして二一世紀の日本は、高い科学技術と爛熟した消費社会を享受する最先端の国家へと変貌を遂げるだろう……。(P28)
  • そのような自己肯定的な時代の空気に敏感に反応したオタク系作品としては、たとえば、八五年に作られた石黒昇原作・監督のアニメ『メガゾーン23』を挙げることができるだろう。この作品は、当時の東京がじつはすべて未来の宇宙船内に作られた虚構であり、コンピュータの作り出した仮想現実だった、という設定を導入している。そして物語は、主人公がその虚構性に気がつき、その閉域を飛び出そうともがくことで進んでいく。この設定そのものも興味深いが、さらに注目すべきは、物語の後半、主人公がその虚構を作り出すコンピュータに対して、なぜ八〇年代の東京を舞台として選んだのか、と理由を問いただすことである。このいささかメタフィクション的な問いに対して、相手のコンピュータは、「その時代が人々にとっていちばん平和な時代だった」からだと答えている。おそらくその台詞は、オタクたちに限らず、当時の東京に生きる多くの若者たちの共通感覚を伝えていたに違いない。八〇年代の日本ではすべてが虚構だったが、しかしその虚構は虚構なりに、虚構が続くかぎりは生きやすいものだった。筆者は、その浮遊感の、言説における現れがポストモダニズムの流行であり、サブカルチャーにおける現れがオタク系文化の伸張だったと捉えている。(P30〜31)
  • 九〇年代後半のオタク系の論客の主張は、かつてのポストモダニズムの言説を知る読者にとっては、懐かしさすら感じさせる独特の古さを帯びている。たとえば岡田は「オタク文化が世界の主流になりつつあるのではないか」と述べ、また村上は「日本は世界の未来かもしれない」と記しているが、これらの発言はじつは、「この三百年、五百年ぐらいで、今ほど日本主義がトレンディな時代はないわけで、浮世絵以上じゃないかな」という八五年の坂本龍一の発言とかぎりなく似ている。オタク系文化をめぐる言説はこの点で、九〇年代のあいだも、相変わらず八〇年代の浮遊感を継承し、甘美なナルシシズムを生き続けてきたと言ってよい。(P31〜32)
  • オタク系文化の存在は、一方で、敗戦の経験と結びついており、私たちのアイデンティティの脆弱さを見せつけるおぞましいものである。というのも、オタクたちが生み出した「日本的」な表現や主題は、じつはすべてアメリカ産の材料で作られた二次的で奇形的なものだからだ。しかしその存在は、他方で、八〇年代のナルシシズムと結びつき、世界の最先端に立つ日本という幻想を与えてくれるフェティシュでもある。というのも、オタクたちが生み出した擬似日本的な独特の想像力は、アメリカ産の材料で出発しつつ、いまやその影響を意識しないですむ独立した文化にまで成長したからだ。(P32)
  • いま私たちの手元あるのは、もはや「アメリカ産の材料で作られた擬似日本」でしかない。私たちはファミレスやコンビニやラブホテルを通してしか日本の都市風景をイメージできないし、またその貧しさを前提としてねじれた想像力を長いあいだ働かせている。その条件を受け入れることができなければオタク嫌いになるし、逆にその条件に過剰に同一化してしまうとオタクになる、そういうメカニズムがこの国のサブカルチャーでは働いているのだ。だからこそ、ある世代より以下の人々は、たいていオタク好きかオタク嫌いかくっきりと分かれてしまうのである。(P33)
  • オタク系文化の本質とポストモダンの社会構造のあいだに深い関係がある、という筆者の主張は、別にそれだけでは新しいものではない。オタク系文化のポストモダン的な特徴としては、すでにつぎの二点が指摘されている。ひとつは「二次創作」の存在である。二次創作とは、原作のマンガ、アニメ、ゲームをおもに性的に読み替えて制作され、売買される同人誌や同人ゲーム、同人フィギュアなどの総称である。それはおもに、年二回東京で開催されるコミケや、全国でより小規模に無数に開催されている即売会、またインターネットなどを介して活発に売買が行われている。アマチュアベースとはいえ、この二〇年間、その市場は量的にも質的にもオタク系文化の中核を占め、大量の部数が動き、数多くのプロの作家がそこから育っている。オタク系文化の動向は、商業ベースで発表される作品や企画だけでなく、それらアマチュアベースの二次創作まで視野に入れないと捉えられない。この特徴がポストモダン的だと考えられているのは、オタクたちの二次創作への高い評価が、フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールが予見した文化産業の未来にきわめて近いからである。ボードリヤールポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測していた。原作もパロディもともに等価値で消費するオタクたちの価値判断は、確かに、オリジナルもコピーもない、シミュラークルのレベルで働いているように思われる。(P40〜41)
  • もうひとつはオタクたちの行動を特徴づける虚構重視の態度である。(中略)そしてこの特徴がポストモダン的だと言えるのは、単一の大きな社会的規範が有効性を失い、無数の小さな規範の林立に取って替わられるというその過程が、まさに、フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが最初に指摘した「大きな物語の凋落」に対応していると思われるからである。十八世紀末より二〇世紀半ばまで、近代国家では、成員をひとつにまとめあげるためのさまざまなシステムが整備され、その働きを前提として社会が運営されてきた。そのシステムはたとえば、思想的には人間や理性の理念として、政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして、経済的には生産の優位として現れてきた。「大きな物語」とはそれらシステムの総称である。(P42〜44)
  • 近代は大きな物語で支配された時代だった。それに対してポストモダンでは、大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する。日本ではその弱体化は、高度経済成長と「政治の季節」が終わり、石油ショック連合赤軍事件を経た七〇年代に加速した。オタクたちが出現したのは、まさにその時期である。そのような観点で見ると、ジャンクなサブカルチャーを材料として神経症的に「自我の殻」を作り上げるオタクたちの振る舞いは、まさに、大きな物語の失墜を背景として、その空白を埋めるために登場した行動様式であることがよく分かる。(P44〜45)
  • 大塚によれば、オタク系文化においては、個々の作品はもはやその「大きな物語」の入口の機能を果たしているにすぎない。消費者が真に評価し、買うのはいまや設定や世界観なのだ。とはいえ実際には、設定や世界観をそのまま作品として売ることは難しい。したがって現実には、実際の商品は「大きな物語」であるにもかかわらず、その断片である「小さな物語」が見せかけの作品として売られる、という二重戦略が有効になる。大塚はこの状況を「物語消費」と名づけた。二次創作というシミュラークルの氾濫には、その当然の結果にすぎない。(P50)
  • ポストモダンの世界はどのような構造をしているのか。一九八〇年代の日本では、そのひとつの候補として、深層が生滅し、表層の記号だけが多様に結合していく「リゾーム」というモデルが示されることが多かった。しかし筆者の考えでは、ポストモダンの世界は、(中略)データベース・モデル(読み込みモデル)で捉えたほうが理解しやすい。(P52)
  • 「小さな物語」と「設定」の二重構造とは、見せかけと情報の二重構造のことである。物語消費に支配されたオタク系文化においては、作品はもはや単独で評価されることがなく、その背後にあるデータベースの優劣で測られる。そしてそのデータベースはユーザーの側の読み込みによっていくらでも異なった表情を現すのだから、ひとたび「設定」を手に入れてしまえば、消費者はそこから原作と異なった二次創作をいくらでも作り出すことができる。(P53)
  • 九〇年代のオタクたちは一般に、八〇年代に比べ、作品世界のデータそのものに固執するものの、それが伝えるメッセージや意味に対してきわめて無関心である。逆に九〇年代には、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強めていく、という別のタイプの消費行動が台頭してきた。この新たな消費行動は、オタク自身によって「キャラ萌え」と呼ばれている。後述のように、そこではオタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している。したがって、この消費行動を分析するうえでは、もはや、それら作品の断片が「失われた大きな物語」を補填している、という図式はあまり適切でないように思われる。(P58)
  • ガンダム』のファンは「宇宙世紀」の年表の整合性やメカニックのリアリティに異常に固執することで知られている。それに対して『エヴァンゲリオン』のファンの多くは、主人公の設定に感情移入したり、ヒロインのエロティックなイラストを描いたり、巨大ロボットのフィギュアを作ったりすることだけのために細々とした設定を必要としていたのであり、そのかぎりでパラノイアックな関心は示すが、それ以上に作品世界に没入することは少なかったのである。(P59〜60)
  • それは単なるフェティシュと異なり、市場原理のなかで浮上してきた記号である。たとえば「メイド服」は、八〇年代後半のアダルトアニメくりぃむレモン・黒猫館』を起源とし、九〇年代に入ってノベルゲームを中心に勢力を広げてきたことが知られている。また「触覚のように刎ねた髪」は、筆者の観察では、九〇年代の半ば、ノベルゲームの『痕』で現れたことから一般化し、現在では多くのアニメやゲームで見られるデフォルトの要素に成長している。消費者の萌えを効率よく刺激するために発達したこれらの記号を、本書では、以下「萌え要素」と呼ぶことにしよう。萌え要素のほとんどはグラフィカルなものだが、ほかにも、特定の口癖、設定、物語の類型的な展開、あるいはフィギュアの特定の曲線など、ジャンルに応じてさまざまなものが萌え要素になっている。(P66〜67)
  • いまや、個々の物語が登場人物を生み出すのではなく、逆に、登場人物の設定がまず先にあり、そのうえに物語を含めた作品や企画を展開させる戦略が一般化している。そしてこのような状況では、必然的に、個々の作品の完成度よりもキャラクターの魅力のほうが重要になるし、またその魅力を高めるためのノウハウ(萌え要素の技術)も急速に蓄積されることになる。萌え要素のデータベース化は、このような状況のもとで必然となった。(P72)
  • オタク系作品に現れるキャラクターは、もはや作品固有の存在なのではなく、消費者によってただちに萌え要素に分解され、登録され、新たなキャラクターを作るための材料として現れる。したがって、萌え要素のデータベースは有力なキャラクターが現れるたびに変化し、その結果、次の季節にはまた、新たな萌え要素を搭載した新世代のキャラクターたちのあいだで熾烈な競争が繰り広げられるのだ。(P75)
  • 九〇年代のオタク系文化を特徴づける「キャラ萌え」とは、じつはオタクたち自身が信じたがっているような単純な感情移入なのではなく、キャラクター(シミュラークル)と萌え要素(データベース)の二重構造のあいだを往復することで支えられる、すぐれてポストモダン的な消費行動である。特定のキャラクターに「萌える」という消費行動には、盲目的な没入とともに、その対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側面が隠されている。(P76)
  • いままでの議論をまとめておこう。コミック、アニメ、ゲーム、ノベル、イラスト、トレカ、フィギュア、そのほかさまざまな作品や商品の深層にあるものは、いまや決して物語ではない。九〇年代のメディアミックス環境においては、それら多様な作品や商品をまとめあげるものはキャラクターしかない。そして消費者はその前提のうえで、物語を含む企画(コミックやアニメやノベル)と物語を含まない企画(イラストやフィギュア)のあいだを無造作に往復している。ここでは、個々の企画はシミュラークルであり、その背後に、キャラクターを設定からなるデータベースがある。(P76〜77)
  • 近代小説が現実を写生しているとするならば、オタク系小説は虚構を写生している。清涼院の描く登場人物や物語は決して現実的ではないが、先行するコミックやアニメの世界では可能なものであり、したがって読者はそれをリアルだと受け止める。大塚はこのような態度を「アニメ・まんが的リアリズム」と呼び、その起源を、七〇年代末、新井素子が「マンガ『ルパン三世』の活字版を書きたかった」と発言したことに求めた。自然主義的なリアリズムと「アニメ・まんが的リアリズム」は表面的にはまったく異なった印象を与えるが、前者自体が日本では虚構だった以上、リアリズムのその変化は一種の必然だった、と大塚は論じている。(P81)
  • いままでのポストモダン論においては、シミュラークルの増加は、オリジナルとコピーの区別が失われたところで生じる無秩序な現象だと捉えられることが多かった。そういうときにまず引用されてきたのは、ドイツの批評家、ヴァルター・ベンヤミンが六〇年以上前に記した「複製技術時代における芸術作品」という短い論文である。そこでベンヤミンは、特定の作品に宿るオリジナリティの感覚(「アウラ」と呼ばれる)とは、その作品の存在を生み出した「儀式」の「一回性」によって根拠づけられるものだが、複製技術はその感覚を無効にしてしまう、と主張して有名となった。この主張がのちのシミュラークル論の根幹となる。(P84〜85)
  • ヘーゲル哲学は一九世紀の初めに作られた。そこでは「人間」とは、まず自己意識をもつ存在であり、同じく自己意識をもつ「他者」との闘争によって、絶対知や自由や市民社会に向かっていく存在だと規定されている。ヘーゲルはこの闘争の過程を「歴史」と呼んだ。そしてヘーゲルは、この意味での歴史は、一九世紀初めのヨーロッパで終わったのだと主張していた。この主張は一見奇妙に思われるが、じつはいまでも強い説得力を備えている。というのも彼は、ちょうど近代社会が誕生するとき、まさにその誕生こそが「歴史の終わり」だと宣言していたからだ。彼の主著『精神現象学』が、ナポレオンがイエナに侵攻する前日、まさにそのイエナで脱稿されたというのは有名な話である。むろん、西欧型の近代社会の到来をもって歴史の完結とするこのような考え方は、のち民族中心主義的なものとして徹底的に批判されている。しかし他方で、ヘーゲルののち、二世紀のあいだ近代的価値観が全世界を覆っていったという現実がある以上、その歴史観がなかなか論駁したがいのも事実である。(P96)
  • いずれにせよここで重要なのは、ヘーゲルではなく、その歴史哲学にコジェーヴが加えたある解釈である。より正確には、彼が講義の二〇年後に『ヘーゲル読解入門』の第二版に加え、以後、少なくとも日本では有名となったある脚注である。第一章でも簡単に紹介したように、そこでコジェーヴは、ヘーゲル的な歴史が終わったあと、人々には二つの生存様式しか残されていないと主張している。ひとつはアメリカ的な生活様式の追及、彼の言う「動物への回帰」であり、もうひとつは日本的なスノビズムだ。コジェーヴは、戦後のアメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼ぶ。このような強い表現が使われるのは、ヘーゲル哲学独特の「人間」の規定と関係している。ヘーゲルによれば(より正確にはコジェーヴが解釈するヘーゲルによれば)、ホモ・サピエンスはそのままで人間的なわけではない。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない。対して動物は、つねに自然と調和して生きている。したがって、消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会は、彼の用語では、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる。そこには飢えも争いもないが、かわりに哲学もない。「歴史の終わりのあと、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう」と、コジェーヴは苛立たしげに記している。(P97〜98)
  • 他方で「スノビズム」とは与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。スノッブは環境と調和しない。たとえそこに否定の契機が何もなかったとしても、スノッブはそれをあえて否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ愛でる。コジェーヴがその例に挙げているのは切腹である。切腹においては、実質的には死ぬ理由が何もないにもかかわらず、名誉や規律といった形式的な価値に基づいて自殺が行われる。これが究極のスノビズムだ。このような生き方は、否定の契機がある点で、決して「動物的」ではない。だがそれはまた、歴史時代の人間的な生き方とも異なる。というのも、スノッブたちの自然との対立(たとえば切腹時の本能との対立)は、もはやいかなる意味でも歴史を動かすことがないからである。純粋に儀式的に遂行される切腹は、いくらその犠牲者の屍が積み上がろうとも、決して革命の原動力にはならないというわけだ。(P98)
  • まさに彼の指摘のあと、日本ではオタク系文化が出現し、江戸文化の後継者を自任しつつ新たなスノビズムを洗練させていったからである。幾度か参照している『オタク学入門』によれば、オタク的感性の柱をなすのは「騙されているのを承知の上で、本気で感動したりもする」距離感である。オタクたちは、「『子供騙し』の番組を大人になってからあえて見る、というのも相当無意味な行為」であることを知っている。たとえば彼らには根強い人気のある戦隊特撮ドラマやロボットアニメは、どれもこれも似たような設定で似たような物語を展開しており、そのかぎりで個々の作品はまったく無意味だと言える。しかし、岡田斗司夫が説明するようなオタク的感性は、まさに、その実質的な無意味から、形式的な価値、「趣向」を切り離すことで成立している。このような切り離しは、コジェーヴが記したスノビズムの特徴そのものである。(P99)
  • 大澤によれば、戦後日本のイデオロギー状況は、四五年から七〇年までの「理想の時代」と、七〇年から九五年までの「虚構の時代」の二つに分かれる。本書での表現を言えば、「理想の時代」とは、大きな物語がそのまま機能していた時代、「虚構の時代」とは、大きな物語がフェイクとしてしか機能しない時代のことである。この枠組みのなかではオタク的な物語消費=虚構重視は、「消費社会的シニシズムの徹底した形態」として、終戦から八〇年代まで一貫する流れのうえで捉えてられる。そして九五年のオウム真理教事件は、まさにその流れの終わりに位置している。「連合赤軍──およびそれに同時代性を感覚した人々──が、理想の時代の終焉(あるいは極限)を代表しているとするならば、オウム真理教は、虚構の時代の終焉(極限)を代表するような位置を担ったのだ」。(P107)
  • ここ数年のオタク系文化でノベルゲームが果たしてきた役割はきわめて大きい。たとえば、『エヴァンゲリオン』以後、男性のオタクたちのあいだでもっとも影響力のあったキャラクターは、コミックやアニメの影響人物ではなく、おそらく『To Heart』のマルチである。(P112)
  • 彼らが「深い」とか「泣ける」とか言うときにも、たいていの場合、それら萌え要素の組み合わせの妙が判断されているにすぎない。九〇年代におけるドラマへの関心の高まりは、この点で猫耳やメイド服への関心の高まりと本質的に変わらない。そこで求められているのは、旧来の物語的な迫力ではなく、世界観もメッセージもない、ただ効率よく感情が動かされるための方程式である。(P115)
  • アクションゲームにしろロールプレイングゲームにしろ、スクリーン上に表示される画面や物語展開は、プレイヤーの操作に応じて生成されたひとつのヴァージョンにすぎない。プレイヤーの操作が変われば、同じゲームは異なった画面や物語展開を表示する。そしてゲームの消費者は、当然のことながら、ひとつの物語だけを受容しているのではなく、それら異なったヴァージョンのありえた物語の総体をも受容している。したがって、ゲームの分析においては、この消費の二重構造に注意しておかないと、文学批評や映画批評の枠組みをそのまま持ち込んで失敗することになる。このゲームの構造は、明らかに、いままで検討してきたようなポストモダンの世界像(データベース・モデル)を反映している。したがってコンピュータ・ゲームの発展とポストモダン化の進展のあいだには深い関連があり、実際にそれは時期的な符号でも明らかだが、その点について論じるのはまた別の機会に譲ることとしよう。(P115〜116)
  • ノベルゲームの構造は、本質的に、プレイヤーがいくつもの恋愛を変遷することを求めている。にもかかわらず、ノベルゲームのシナリオでは、主人公(プレイヤーの同一化の対象になる登場人物)の性格として、つぎつぎと女性を取り替える漁色のタイプが設定されることは少ない。むしろそこでは、ヒロインとの「運命」や「純愛」が強調されることがきわめて多い。したがってそのようなゲームにおいては、主人公は、各分岐ごとに純愛を経験し、それぞれのヒロインと運命の出会いを送る人物として描かれながら、しかし実際にはプレイヤーが別の分岐を選ぶたびに別の恋愛が運命と呼ばれる、という明確な矛盾を抱えることになる。つまりここでは、普通に考えて、システムの特性が要請するドラマと、シナリオとして用意されているドラマのあいだに大きな齟齬が見られるわけだ。しかしデータベース消費の局面においては、まさにこの矛盾が矛盾だと感じられないのである。作品の深層、すなわちシステムの水準では、主人公の運命(分岐)は複数用意されているし、またそのことはだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、主人公の運命はいずれもただひとつのものだということになっており、プレイヤーもまたそこに同一化し、感情移入と、ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾と感じない。彼らは、作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、いまこの瞬間、偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。(P123〜124)
  • 動物化とは何か。コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』は、人間と動物の差異を独特な方法で定義している。その鍵となるのは、欲望と欲求の差異である。コジェーヴによれば人間は欲望をもつ。対して動物は欲求しかもたない。「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な渇望を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏─満足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。その種の渇望の例として、コジェーヴを始め、彼に影響を受けた多くのフランスの思想家たちが好んで挙げてきたのは、男性の女性に対する性的な欲望である。男性の女性への欲望は、相手の身体を手に入れても終わることがなく、むしろますます膨らんでいく(と彼らは記している)。(P126)
  • そろそろ結論に入ることとしよう。データベース型世界の二重構造に対して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化するが、後者では擬似的で形骸化した人間性を維持している。要約すればこのような人間像をここまでの観察から浮かび上がってくるものだが、筆者はここで最後に、この新たな人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う。(P140)
  • 近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有の「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有な社交性を通して満たすことができた。言い換えれば、小さな物語と大きな物語のあいだを相似的に結ぶことができた。しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。現代思想風の用語を使って表現すれば、これが、本章の第二の問い、「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、ではそこで人間性はなくなってしまうのか」という疑問に対する、現時点での筆者の答えである。(P140〜141)
  • 多重人格は、単なる医学現象というより、アメリカのある科学哲学者が指摘するように、二〇世紀後半の文化的な「運動」のひとつだと捉えたほうが分かりやすいだろう。(P168)
  • 『YU−NO』は、現世編のシステムではデータベース消費の二重構造を、現世編のドラマでは多重人格的な生き方を、そして異世界編のドラマでは物語消費の幻想の限界を描いた、きわめて周到な作品だと考えている。「ポストモダン」や「オタク系文化」というと、社会的な現実から切り離され、虚構のなかに自閉したシミュラークルの戯れを想像する読者も多いかもしれないが、そこにもやはりこのような作品があるのだ。このようなすぐれた作品について、ハイカルチャーサブカルチャーだ、学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテイメントだといった区別なしに、自由に分析し、自由に批評できるような時代を作るために、本書は書かれている。これ以降の展開は、読者ひとりひとりの手に委ねたい。(P174〜175)