「クロイヌ家具店」 大海赫 04年05月10日発行

  • ところが、ある日ぼくがいすをシイの木かげにおいたまま、ちょっと目をはなしているまに、やっかいなことがおこった。/シイの木のやつが、ふといみきを二度曲げて、ぼくのいすにこしかけてしまったんだ。いすにのっているみきの一部分が、シイの木のおしりみたいに見えた。/もちろん、ぼくはシイの木からいすをひきぬこうとした。が、このがんこじじいは、どっかりといすにおしりを落としたきり、てこでもうごこうとしなかった。(P8)
  • 「……おどろきなさんなよ。/……二百二歳も年上なんだ。/……あんた、いま十歳だろ?/……だから、わしゃことしニ百十二歳というわけだ。/……つまり、わしゃ、生まれてから二百十二年ものながい、ながーいあいだ、なにひとつ悪いことしたわけでもないのに、ずーっと立たされぼうずだったんだ。/……あんたも、ニ百十二年間立っていてみい。/……いすにかけたくてかけたくて、……たまらなくなるよ。」(P10)
  • 「だいいち、なくなったあなたのおとうさんが、会社で一日じゅうこしかけていらしゃったいすは、どこの店のいすだったと思います?」/「知らないよ。」/「クロイヌ家具店のでしたよ。なかまが、そのいすに黒犬のマークがついていたと知らせてくれたんです。」/「そんならチムチェさんは、そのいすがパパを殺したって言うの?」/「もちろん!」/「うそだ!」/「いいや、うそではありません。ついきのうも近所のあるおとしよりが、黒犬のマークのついたいすにこしかけたきり死んでしまいましたよ。医者は、その人の心臓がよわっていると言ったそうですが、わたしは、だんじてそうは思いません。いすのせいです。クロイヌ家具店のいすのせいでしたよ。」(P16〜17)
  • 「あーあ、わかってないな。大きい店ほどいいものを売るとはかぎりませんよ。そりゃあ、あそこには小さな店にはない、ねだんの高い、とくべつないすがそろっています。ところが、わたしの見たところ、あの店のいすは、ねだんの高いとくべつなものほどあやしいんですよ。と言うのは、そんないすにかぎって、どこか変わった形をしているとか、気味の悪いもようがきざんであるとかするんです。」(P17)
  • けれども、ぼくはさしあたって、王さまの国へ行くよりも、王さまのいすにちょっとでいいからこしかけてみたかった。こしかけたら、ぼくのおしりが、金のおしりに変わってしまうかもしれなかったが。(P24〜25)
  • 「きもちはよくわかる。しかしね、ナナホシくん。おとうさんがクロイヌ家具店のいすにこしかけたから死んだというのは、まちがっているよ。それは自分のからだに合わないようないすに長い時間こしかけていれば、命をちぢめるよ。そういう人は、いすのえらびかたをまちがえているんだ。いすというやつはね、ほんとうは猟犬のように気むずかしく、おそろしい生き物なんだよ。だから、いすを買うときには、注意深いうえにも注意深くえらばなくてはならないものなんだ。ところが、たいていの人が、いそがしすぎるせいかな、店員にそうだんもせず、自分でもろくろく調べてもみず、手あたりしだいにいすを買って、こしかけてしまう。失礼だが、きみのおとうさんも、そんなふうにいすにこしかけておられたのではないのかね? それで、とうさんは、あれほどご熱心に、きみのいすをえらぶよう、わたしにたのまれたのだろう。」(P56〜57)
  • 男は、そのいすを示して言った。/「これが、きみのISS(いっす)・209号だよ。なにより、おめでとう。」/ISS・209と小さく書かれたそのいすは、かわいい木のいすで、せもたれには太陽と花とライオナンのくみあわさったこまかいもようが、美しく彫りつけられていた。(P63)
  • 「ねえ、ぼうや。うちの子のために、そのいすを売ってくれないかしら。うちの子はね、生まれたときからあしがないの。」/それを聞いて、ぼくは、はきそうになった。その人のうそが、すぐわかった。(P70)
  • 「言わないこっちゃない。モエルさん、わたしたちは死にますよ。きっと死にます。空から落ちて。こんなくだらないいすをほしがって、あなたは気がくるちゃったんだ! あーあ、テレビになんか出たがるんじゃなかった。わたしはばかものだ! ヌモイミタムチッチ、ヌモイミタムチッチ、ヌモイミタム……」/「それ、なあに?」/「ネズミのおいのりです。あなたもおいのりしなさい。」(P76)
  • ナナホシくん、教室では、学校のいすを使いなさい。家からとくべつないすをもってきてはいけないね。きみひとりが、かってないすを使うと、みんなも、かってないすを使いたがるからね。めいめいがちがういすを使いはじめると、こまるのは先生なんだよ。ノブキくんがひじかけいす、リンドウさんが回転いす、ユキノシタくんが日なたぼっこ用のデッキチェアなんてことになってごらん。つくえだって、そういういすに合ったものにしなくてはいかん。いや、そればかりか、教室だって、学校だって、にたようないすばかり集めて、そのいすに合ったものにつくりかえなくてはいかん。それに、みんなにはまだよくわからないかもしれないが、たとえば算数にもいろいろあってね、ひじかけいすにこしかけた人むきの算数があれば、回転いすにこしかけた人むきの算数もある。日なたぼっこ用のデッキチェアにこしかけた人むきの算数でさえ、ちゃあんとあるんだ。つまり、回転いすなら回転いすむきの学校で、回転いすむきの算数を、回転いすむきのつくえの上で学ばなくてはいかんと、こういうわけだよ。だからね、ナナホシくん、ともかく、そのいすを、うしろに出して、学校のいすで勉強しなさい。……そう、そう。」(P85〜86)
  • ──ぼくの考えは、強まるばかりだった。/やっぱり、インスはいすにされたこどもなんだ!(P128)
  • 「どうといって、なにもテレビや新聞が大さわぎするほどの事件ではない。大体いすというものは、つねに人間から逃げたがっているものだ。それを逃げないでいるのは、つまさきがないからなんだよ。馬のような、たくましいものとちがって、いすどもは、それほど人間のしりをおそれているのだ。だから、つまさきのあるインスが、すきを見て逃げ出すのは当然のことだよ。」(P131)
  • アメリカって、ほんとうは、おそろしいところなんだよ。アメリカでは、毎日たくさんのいすがつくられている。しかし、それよりももっとたくさんのいすが、毎日こわされているんだ。というのは、大部分のアメリカ人が、同じいすに七日とこしかけていないからだ。いや一回でもこしかければいいほうで、ほとんどのいすは、こしかけないうちにこわされてしまう。でも、それはアメリカ人がぜいたくだからじゃないんだ。むしろ、アメリカでは、古いいすにこしかけているほうが、ぜいたくなのさ。アメリカ人はね、ぼくたちにわからない不安で、つぎつぎといすを変えないではいられないって言うんだ。でも、かわいそうなのは、いすたちだよ。同じいすになん年でもこしかけていられるような、しあわせな人にぶつかればいい。さもないと、いすの命は、カやハエよりもみじかいんだよ。ただ、人に一回だけこしかけられたっていう悲しい思い出だけをのこして、めちゃめちゃにこわされてしまうんだ。」(P141〜142)