ベストセラーの構造 中島梓 92年12月03日発行

  • 私が、真に重要であり、注目すべきであると考えるのは、だから、これまでは存在しなかったような現象、純粋に今日的である現象の方である。たとえば、私の知るかぎりでは、毎年ミリオンセラーが何点か登場する、というような現象は、数年前までは存在していなかった。むろん、世界的な規模で考えるならある──「赤毛のアン」やアガサ・クリスティー、「火星シリーズ」など──しかし、それは、それこそ「例外」であり、「例外」であるからこそ、現象たりえたのであった。いまや、「例外」が現象をひきおこすのではないことははっきりしている。いかに売れない本が多かろうと、ベストセラーの上位をしめている本はつねにミリオンセラーである。また、もはや、ミリオンセラーでなくては、ベストテンに加わることができない。ミリオンセラーそれ自体が、もはや珍しくなく、四百万、七百万、一千万、とかさねなくては、きわめて衝撃的な「現象」とは云えなくなってきている。むろんこれは日本国内だけの話である──アガサ・クリスティーの売れゆきは、アメリカ一国で年平均五百万部にのぼり、「オリエント急行の殺人」はアメリカで三百万部、イギリスで二百万部を数えるというが、年平均五百万部というのは彼女の九十冊もの著作全部の合計であるし、また「オリエント急行の殺人」の数字は何十年かにまたがるもの(現在もふえつづけているにせよ)である。二年弱で四百五十万部を売りあげた「窓ぎわのトットちゃん」がいかに異常な現象であったかは、それをもってしてもわかると云える。「天中殺入門」の七百八十万部については、いうまでもない。(P16〜P17)
  • やはりそれは、読者のレベル・ダウンを意味しているのだ──と私は思う。ただレベル・ダウンといっては正確でない。それは三つの理由による、二面性の現象を示している。すなわち、/(一)高等教育の一般化(ことに高校全入の傾向)/(二)マスコミの極度の発達、情報の氾濫/(三)知識人の地位低下(教養主義の衰退)/この三つによって、小説の読者(送り手も)の質はかつてないほど低下し、しかも、読者層はこれまたかつてないほど拡大している、という現象がおこっているのである。(P26)
  • 日本の男性は(何も日本に限ったことではないが)、二十五歳まではせっせと読書し、クラシック、ロックなど趣味的に音楽を愛するようだが、それをすぎるとマンガ週刊誌とゴシップ誌だけを読み、歌謡曲しかきかなくなる、とよく云われる。(P27)
  • 現代の知的中流階級たちは、自らのひらかれない世界がある、と考えることは我慢できない。哲学となれば話は別だ──それは学生のとき、気取って手にするにしても、スノビズムとしても少々退屈にすぎるし、それにそれをみせびらかす当の相手──友人や女の子たち──にあまりに無縁すぎて、かえって馬鹿にされてしまうおそれもある。だがマンガは──いまとなっては、マンガやアニメーションはそれ自体一つのスノビズムを形成してしまっている。奇妙なことだが、「マンガ」「アニメ」「プロレス」などのもっともメジャーなことを前提として成立しているジャンルは、現代特有の価値の逆転によって、それについて語ることはきわめて知的スノビズムであるようなジャンルと見なされているのだ。「低級」「おろか者」と見られる心配のないものだけが誇らかにそれらについて語れる(P28)
  • いちばん恐るべきであるのは、こうしてミリオンセラーの構造をにないながら、当の中流階級たちは、自分たちがマスコミによって「次に何を買うか」を指示されている、とは毛ほども疑っていないことだ。かれらは、かれらにとってはそれはかられらの知的欲求から出てきたものであるから、当然自分自身のものであって、それ以外の何ものもその判断に入りこんでいようわけはないとかたく信じている。かれらにとっては、かれらの「ジャイロスコープ」がマスコミに導かれるのはもう意識の内にもないことなので、かれらは自分こそがミリオンセラーをつくり出していることに気づかない。ミリオンセラーだから買うのだと考える。(P35〜36)
  • 情報が完全に先行し、現実(つまり本)がやってくるのはいちばんさいごである。それがやってくるときには、すでにわれわれは作者の意図から経歴、批評家の意見、選評にその作者のスキャンダルまで知ってしまっている。本の毒はすべてとりのけられ、等身大の作者だけがのこる。(P36)
  • まじめな働きぶりをかわれて次長になった中流階級は、いかにも幸せそうである。しかし一気に彼が支店長に抜擢されたとしてみよう。彼はパニックをおこし、ノイローゼになり、適応不能におちいってしまう──コレット・ダウリングが「シンデレラ・コンプレックス」と名づけたこれらの「成功拒否」は、何も女性のみならず、むしろ男性のほうに、ことに近年ひんぴんと見られる症例である、という。/それは当然、知的シーンにおいても同じ現象としてあらわれてくる。かれらはもう、決して、「知的エリート」であることを望まない。自分や自分の子供が選民であることを望まないだけではない。他の人間がそうであることもうとましがり、ひきずりおろそうとする。知的デモクラシーによる偶像破壊が行われるのである。かれらは途方もないアリストクラートだけは手のつけようのないものとして放っておくが、あとのものは、一人ひとり、かれらと同じレベルへひきおろすことに熱心になる。(P42)
  • へたくそな俳優、アマチュア以外のものではない作家、となりの姉ちゃん的な歌手、クイズ番組でちっともあたらない学者、が人気を呼ぶのも同じ理由だ。かれらは、中流階級に選民の圧迫感を与えない。へまをし、ぼろを出し、わらわれることで、かれらはゆるされる。有名な人間、プロフェッショナルの人間、ふつう以上の知識や金や名誉や才能をもつ人間、がマスコミの中で道化を演じ、さげすまれ、ばかにされ、あるいはそのそぶりをみせるとき、中流階級は心から安心し、親しみを感じ、満足する。「やっぱり自分は正しいのだ」という満足感を、この「新知識人」「新しいアリストクラート」たちは与えてくれるのである。(P44)
  • 「知識人」の変容と作家であることのギャップをかきあてていた作家に三島由紀夫がいるが、彼は同じように「不道徳教育講座」のような「かるいエッセイ」を書き、ふざけちらし、映画に出演し、ボディビルをやり、一見して知識人、純然たるアリストクラート以外の何者でもなかった。三島由紀夫の「タレント性」にだまされる「大多数」はほとんどいなかった。彼のタレントぶりは、結局「文士」の奇行と見做されるものであって、「芸術家と狂気は紙一重」という大多数の考えをむしろなぞり、うらづけたのである。(P48)
  • 「大多数」が待ちかまえていたものをもたらしたのは、この二重構造を、一身で具現してしまおうとした二人の「スター作家」──すなわち、五木寛之、及び野坂昭如の登場にほかならない。(P48〜49)
  • あるときまでは、「読み物」と「文学」はたしかに別のものとして存在していたのだといえる──同じ欲求の上部と下部構造として。北杜夫遠藤周作が、上部構造で「白きたおやかな峰」「沈黙」を書き、下部構造でどくとるマンボウや狐狸庵を書いたように、そこにはさしたる混乱はなかった。その「あるとき」がいつであったかも明確である、といっていいだろう。「中間小説」という、ふしぎな呼称が一般化したとき、また「エンターテインメント」という概念があらわれたときである。(P50〜51)
  • 大衆におどけた気やすい顔を向け、一方で「文学」愛好者層に対して気難しい芸術家の顔を向けるという、二重構造をそのまま我身内包した行き方をとることもできた。しかし、実際には、五木寛之野坂昭如とが選択したのは、これまでは考えられなかった第三の道──すなわち「知的なエンターテインメント」の提供者として、自らも舞台に登場する、ということであった。/これはむろん三島由紀夫の映画出演やボディビルとは根本的にちがう。それは「文士の日常生活での奇行」にほかならなかったが、五木寛之野坂昭如が演じてみせたのは、「日常性に似合う文士(知識人)」なのである。(P51)
  • 筒井康隆が、常時初版五万以上をキープするようになり、「もっとも大学生に読まれている作家」になり、「ユリシーズ」以上にちんぷんかんぷんであるはずの「虚人たち」がベストセラーズ表に顔を出し、彼のコンサートや演じた劇が、何万人の大入り満員を出した、という事実──/それが、五木、野坂の「あと」にやってきたものであった。いわば、メジャー化という大洪水のあとにまかれた最初の種であった。(P68)
  • 本来、筒井康隆の行うこうしたからくりは、高度に知的なものであって、表面にあらわれた明快さ、具象性はたんに、内部の虚無の大きさを示すものでしかなかった。しかし多く学生たちは、その表面上の明快さをストレートにうけとめる。「冷し中華まつり」を知的であると思い、それに共感できる自分を高度に知的であると考える。主婦たちは五木寛之を読んで自らを知的に「中流の上」であると考えるが、学生たちは筒井康隆山下洋輔に入れあげて、自らをまぎれもなく「知的エリート」である、と思う。(P76)
  • ほんとうはこうした作品ほど、真に知的修練を必要とするものはないのだ──きわめてオーソドックスな段階をふんで、さまざまな表現の毒に身を慣らし、そののちにはじめて読むべきものである。しかし、かれらはそのすべての段階をとびこえ、自我を世界とのかかわりにおいて完成するはるか以前に、シニシズムと出会ってしまう。世界を解釈することをせずに、いきなりけとばし、あざわらうやり方だけをまねてしまうのである。まさしくかれらの思考には「ストップがかかる」──そして、いちばん始末がわるいのは、それによってかれらが他のあらゆる種類の思想への好奇心をとざしてしまうことである。(P77)
  • 一方に、アニメーションのヌードに欲情しうる男子高校生がいる。一方に、被爆者の教師に「原爆病」とヤジをとばすことのできる中学生がいる。(P92)
  • いまや「さらしもの」であることが文学者にとってさえ、不可欠になりはじめてきたにしたところで、その作家が妻のパンティをかぶって歩こうが何千万の家をたてようが、そんなことは読者に何の関係があるというか? それは「さらしもの」である、ということでさえない。むしろ、公然たるのぞき趣味、一億総デバカメとでも云うしかない。(P139)
  • これからさき、このような「現象」はどうなってゆくのだろう。これは現在だけの一時期な現象にすぎないのか、あるいは、いったんここまできてしまったマスメディアは、たとえばこのさき、ミリオンどころかビリオンセラーを出し、かぎりなく出版点数をふやし、いよいよ狂奔の度を加えてゆくというのであろうか?/二つの未来が考えられる。ひとつは、少々楽天的にすぎるかもしれぬものである。つmり、このミリオンセラーの群れによってあらたに開発された読者層、つまりはそれらの本のどれか(「トットちゃん」でも「人間の証明」でも「気くばりのすすめ」でも何でもよいが)によって、「生まれてはじめて本を買って読んだ」(こういう層は実に多いのである)人々が、それをきっかけとして「本をよむ」習慣を身につけ、それによってしだいに読書大衆として訓練されてゆき、さいごにはおそらく、ごく知的な、とは云えぬまでも、一応内的志向性を身につけた正統な教養主義的読書人になるのではないか──ということは、量の拡大がゆきわたれば、その中で、全面的にとは云えぬまでも、あるていどは、質の向上もともなうのではないか、そうであるから、このミリオンセラーの続出というのもまんざらではない、という見方。/もうひとつは、もう少し悲観主義的なそれで、このようなミリオンセラーを買う層は、つまるところ「また本屋に」来るかどうか保証できぬ層である。こうした読者ならざる読者に支えられたベストセラーなどは幻にすぎず、結局一つ一つのバラバラなブームがいつかつづかなくなったとき、そのときこそ、日本の出版メディアはそれまでの場当たり的な対応のむくいをうけて、赤字を補うために次々と出版点数をふやし、文庫、新書の過当競争に血道をあげ、むやみと「作家」をつくり出していたやりかたが大幅に破綻をきたすのではないか──そのとき、出版社も本もまた著者も、巨大な容赦ない淘汰にさらされ、そののちにはじめて「正常化」がみられる──そのときには多くの出版社がつぶれ、多くの作家が失職し、そして読書もまた本来のスケールにもどることによって、活字メディアはその本来の機能をとりもどし、少数の知的エリートのためのものとなるのではないか、というような見方。(P225〜226
  • かつて私のある読書家の友人は云った。これから二年間はまだ下降がつづき、そこでカタストロフと淘汰がやってくる、そのあとでは、ものごとはもう少しましになるはずだと──彼がそう云ったのは去年(五十七年)の半ばであった。(P236)
  • 私はあえて云う、この現象の半分をもたらしたのは、多すぎる雑誌にだらだらとルーティンな作品を垂れ流しつづける作家たち、時代から目をそむけて権威主義の夢を追う文壇、そしてつぎつぎと新人をもとめ、漁り、本を出したさに焦るあまりまだ世に問うべきでない段階の青田刈りをつづけてゆく出版社と小説への愛情より雑誌のノルマの優先する編集者なのである。のこり半分について目をつぶってはんらぬものの、そうしたかれらに「小説が売れない」「活字文化の衰退」を口にする資格があるものだろうか。(P239)