サブカルチャー世界遺産

  • サブカルチャーとは、非政治的な状況下で若気の至りを発散するはけ口を失った若年層が、文化的事象に見出した隘路。
  • 書店におけるサブカル棚の登場が、規定されることを拒んできたサブカルのジャンル化を物語る象徴。ジャンル化によってサブカルの熱気は失われた。
  • 雑誌「ビックリハウス」の熱心な読者を「ビックリハウサー」と呼称されていた。
  • 学生運動に破れた若者たちは企業へと就職していったが、一部は反骨心を保ちつつ、出版業界・広告業界へと流れていった。70年代サブカルチャーの熱気を形成したのは、デスククラスへと出世した旧全共闘世代と、その下で執筆にいそしんだ次世代の若者。
  • アメリカは60年代終わり、日本は80年代に電通・パルコなどによってサブカルチャーは資本に取り込まれ、商業化・ファッション化した。
  • エロ本となった宝島に代わる形で、思想系サブカル雑誌「宝島30」が93年に創刊した。
  • 前世代が主流化し、次世代が反発と憧れを持って新たな文化を立ち上げていく。
  • 謡曲やプロレスなど下世話な文化を高尚に語るのが80年代サブカルのハシリだった。
  • 82年ごろには漫画マニアが集まる喫茶店が都心にあって、スターウォーズの格好をしてライトセーバーで斬りあっている客がいたりした。
  • ジャーナリズムの世界には、学生運動をやっていて、一般企業への就職という道をドロップアウトした人が多かった。それによってメディアでは反体制的なカウンターカルチャーアンダーグラウンドカルチャーなどが興隆する。「宝島」「ロッキングオン」などの雑誌や、深夜ラジオや日活ロマンポルノなど。
  • 80年代になるとカウンターの要素が薄まり、当時、象徴的に言われていたのは糸井重里で、中核派の特攻体長をしていたバリバリの反体制的人物が西武のコピーライターとして活躍し「糸井は資本に取り込まれた!」と非難された。
  • 80年代初頭には紀伊国屋書店などの大型書店には「昭和軽薄体」というコーナーがあり、椎名誠や非文芸的なエッセイストの本が置かれていた。書店ではこれらの本を置いた書棚が、気が付くと「サブカルチャー」というジャンルにそっくりそのまま変わっていた(中森明夫・談)
  • 橋本治は、江戸時代のような階級身分が今の時代にはないので、ハイもサブもありえない、浮世絵などの江戸時代の町民文化こそが、本当の意味でのサブカルチャーと言い切る。
  • 受け手が簡単に送り手になれるようになったのは全共闘世代以降。音楽がやりたければ路上で弾き語りし、漫画を描きたかったらアシスタントをやらなくてもいきなり漫画家になれる。そういう風になったのは60年代〜70年代にかけて。
  • すごく大雑把に分けると、60年代はデザイナー、70年代はカメラマン、80年代はコピーライターが注目された時代。90年代は広い意味でのプロデューサーの時代になった(中森明夫・談)
  • 1982年4月10日から1987年4月4日まで放送されたNHKの若者討論番組「YOU」。糸井重里が司会し、青春のイタサが炸裂するスゴイ番組だった。宮崎勤が若者の一員としてスタジオにいたのは有名な話。
  • 82年にCDが登場し、過去の旧譜が続々と再発され、新しいも古いもすべて新譜として聴くという時代状況を無視した音楽体験ができた。レアな音源から王道の音源まで過去の様々なジャンルの音楽を聴けるという今日のスタイルが当たり前になったのには、CDの復刻ラッシュが強く影響していた。
  • 1978年1月19日から1989年9月28日まで放送されたTBSの音楽番組「ザ・ベストテン」。歌謡曲以外に、ニューミュージック系歌手が次々とランクインしていたが、テレビ出演拒否が多数で、毎週のように久米宏が謝罪していた。
  • イエロー・マジック・オーケストラYMO)は、マーティン・デニーが作っていた無国籍風ちゃんぽん音楽に触発され作品を作るも誰にも理解されなかった細野晴臣が「このヘンテコリンな世界を、最近ブームのディスコ音楽に乗っければいいんじゃないか?」と高橋幸宏坂本龍一を巻き込んで78年に結成したバンド。音楽評論家の阿木譲がこの種の新感覚サウンドを「テクノポップ」という新語を用いて表現。
  • ミュージシャンというよりタレントとして有名だった近田春夫が81年に「タレント廃業、ミュージシャンに専念」宣言をして結成されたバンドがビブラトーンズ。
  • 坂本龍一が86年に発表したアルバム「未来派野郎」。イタリアの詩人マリネッティが20世紀初頭に提唱して起こった芸術運動・未来派をキーワードに製作されたコンセプチュアルなアルバム。
  • タイガースなどのグループサウンドをパロディしていたバンド郡が脚光を浴びた時代があった。ガレージ・パンクの要素を加えたネオGSの演奏は、色もの・企画ものという言葉で括るには惜しい演奏的テンションを実現。音楽に対する雑食的な価値観は後の渋谷系にも引き継がれていった
  • じゃがたらのボーカル・江戸アケミの自信と確信に満ちたボーカルを、近田春夫は「音楽は打楽器だった」と評した。
  • 時代と寝た女・森高千里渡辺和博は「森高千里の股にあるのは陰部ではなく陽部である」と言った。
  • フリッパーズギター解散後、ギター片手にぶっきらぼうに歌う小沢健二のソロを見た小山田圭吾は「なんか……尾崎みたいだった」と言い、小沢は小山田のソロを「ピチカートの音にフリッパーズ・ギターの歌詞が作ったものみたいだった……そんだけ」と言った。
  • ヤン富田はCDが登場してレコードの溝の音がなくなったおかげでやっとできるようになったとジョン・ケージの「4分33秒」をカヴァーした。
  • スチャダラパーは93年のアルバム「ワイルド・ファンシー・アライランス」でピラミッドや万里の長城などの人類の遺産を「発想自体ヒマのたまもの」と語り、「人は必死にヒマをつぶしているだけだ。ヒマを生き抜く強さを持て」と主張。「ほとんどのラップは、殺せとか犯せとか具体的な行動について歌うじゃないですか。僕らは行動を支配する、考えの持ちようについてコメントしたかった」と語る。
  • 音楽シーンで「3ヨシが来る!」といわれていた時代があった。3ヨシとは山崎まさよし斉藤和義中村一義
  • 81年に近田春夫漫才ブームに便乗してザ・ぼんちの「恋のぼんちシート」を大ヒットさせる。この歌はビートたけしにパクリをツッコまれ、たかがコミックソングをめぐりパクリ論争が起きるという、サブカル的状況が出現した
  • 赤田祐一はクイック・ジャパンで「サブカルチャー」というより「サブカルト」がやりたかった。
  • 「小説読んで小説書いたり、映画だけ見て映画撮ったりとか、自分の得意分野以外では話が通じないような、オタク的な人間があまりにも多いと思うんだよね。もっとクロスオーバーというか、ノンジャンルで情報を摂取していかなければ、本当に面白いものは出てこないと思うんだけどな」(赤田祐一・談)
  • 80年代後半、オカルト雑誌ムーの読者欄に前世での友人を探す内容の投稿が殺到し、ほぼ同じ頃、二人の少女が前世を探すことを目的として薬物による自殺未遂をはかるという事件も起きた。このような現象を引き起こした前世探しブームの中心にあったのは漫画「ぼくの地球を守って」。前世での記憶共有をきっかけに繰り広げられる少年少女たちの愛憎巨編。
  • 女子高生が持ち歩いた「死にかけ人形」やTVゲームの「シーマン」を「ブキュート(不気味でキュート)」と呼んだ。
  • 少女マンガのピークは85年〜86年。それまでは誰でも少女マンガを読んでいたのに、85年〜86年になると一般的に小学生までしか読まなくなる。普通の子は卒業して性的な社交関係に入っていく。そこに乗り出せない人たちが、少女マンガを読みつづけた
  • ファミコンブームは第二次ベビーブーム世代が支えたおかげで「わずか社員900人の任天堂の経常利益が社員20万人の松下電器に匹敵する」というとんでもない状態を作った
  • 80年に登場した「パックマン」は日本国内のみならず世界中で大ヒットし、アメリカではテレビアニメ化され「パックマンは80年代のミッキーマウスだ」とまで言われた。まだアニメが日本発の文化として世界を席巻していない時代に和製ゲームが一足先に世界を席巻した。
  • 街の人から情報を聞き出す、パーティ制などの現在では当たり前になっているゲーム文法は「ウルティマ」が作った。
  • 3Dダンジョンを探検するパソコン用RPGウィザードリィ」に熱中したアメリカ人少年が現実と虚構の区別がつかなくなって精神病院に入院した。こんな都市伝説がパソコン雑誌で紹介されるほどウィザードリィの中毒性は高かった。
  • 信長の野望」は中高年サラリーマンが熱中できるゲームとして話題を呼び、当時は「これは経営の勉強にもなる」と言われた。
  • ゼビウス」で遠藤雅伸はプログラムを書き始める前に、文化・政治・言語体系を含めたゼビウス星の物語を小説で完璧に書き上げた。
  • ハドソンはロードランナーファミコンに移植する際、いきなり150万本発注するという賭けに出た。見事賭けに勝利して140万本以上売り上げた。
  • 「ゲームを買ったら攻略本が必要」という流れを作ったのは「ドルアーガの塔」。
  • 85年に作られた「リトル・コンピューター・ピープル」は家に住んでいるおじさんを観察し、飼育するゲーム。このコンセプトは世界初でたまごっちやルーマニアなどの育成&観察ゲームの偉大な先達。
  • 初のコマンド選択型のアドベンチャーゲームを作ったのは堀井雄二で作品は「ポートピア連続殺人事件」。
  • イース」はブーム時にヒロインにちなんだミスコンテストが開催された。
  • 音楽ゲームの元祖は87年にディスクシステムで発売された「オトッキー」。横スクロール型シューティングで自機がヨーヨーのようなボールを撃つと八方向にそれぞれ対応した音が鳴るという、シューティングをやりながら音楽を演奏するという破天荒なコンセプト。
  • 人間は七つの図形までなら直感的に把握できるという法則に基づいてテトリスのブロックは七種類になった。製作者パジノトフの心理学者としての顔がゲームデザインにも反映されている。
  • ストリートファイター2のブームは「あんな複雑な操作はできない」とシューティングファンのゲーセン離れを起こし、ゲームユーザーの新旧世代交代を引き起こした。
  • 90年代前半、アメリカの少年向けに「君がクールと感じるブランドを挙げよ」というアンケートが行われてセガが堂々3位に輝いた(1位はナイキ)。
  • バーチャファイター」は欧米市場でも衝撃的に迎え入れられ、米国スミソニアン博物館が「人類の遺産」として永久保存している。
  • ポケモンで息を吹き返したゲームボーイは世界で一億台以上売れ、ゲーム市場最も売れたハードとなった。
  • グランツーリスモ」はそれまでレースゲームといえばスポーツカーを走らせるのが当たり前だったところを、一般車を走らせたことが新しかった。「グランツーリスモでどんな走りをするか確認したから、実際の車を買おう」と考える人まで出た。
  • スペースインベーダーブームの時にできたゲームセンターの数は、現在の総数の倍以上だった。
  • サブカルをメジャーにした人は糸井重里。でっかい会場で「ヘンタイよいこ集会」開いて、コピーライターの糸井さんが忌野清志郎やバンドの人を従えて歌う姿は強烈だった。(みうじゅん・談)
  • ボトムズガンダムが打ち立てたロボットは兵器に過ぎないという概念をさらに強めた作品。超接近戦になったらコクピットを開けてパイロットが直に銃撃する戦術など。
  • 美少女アニメくりぃむレモン」の第一巻のタイトルは「媚・妹・Baby」。
  • 宮崎駿は「カリオストロの城」以後、現場から退いて新人教育など後進の指導にあたっていた。「風の谷のナウシカ」は久々の現場復帰だった。
  • 映画「宇宙戦艦ヤマト」は公開初日に間に合わず、旧作を流した。「完結編」に至っては上映するごとにフィルムがさしかわっていた。
  • やおいブームを作ったのは「キャプテン翼」。
  • ブレードランナー」のアジアン・テイストは当時の社会学者が唱えていた「2019年のロスはアジア系に占められている」という未来予見を映像化しただけ。
  • タランティーノは「レザボアドッグス」が「友よ風の彼方に」のパクりだと指摘され、悪びれもせず「盗んだ」と明言し、「あらゆる所に映画の元はある」と言い切った。
  • 蓮実重彦は「勝手にしやがれ」(59年)で「アクションの歴史は終わった」と言った。
  • スピルバーグが「ジュラシック・パーク」をあえてストーリー性を薄くした目的は「見世物小屋映画の復興」だった。
  • 現在では名実ともに世界的スターのジャッキー・チェンだが、一度ハリウッド進出に失敗している。「キャノン・ボール」に脇役として出演している。
  • 森田芳光は「家族ゲーム」の後に「流行監督宣言」をして、メジャー度の強い作品を作る。薬師丸ひろ子主演の「メイン・テーマ」やとんねるず主演の「そろばんずく」など。
  • オウムの信者は連日の麻原報道を「信仰をためす試練」としてむさぼるように凝視した。
  • 田尻智は世界で最初に攻略本を作った人間で、自作で液晶テレビファミコンを組み込んだゲームボーイの原型を作ってた。
  • 町山智宏と根本敬が行った取材で、中目黒の駅出たところの商店街に、壁中に「毒電波が流れている」とかいっぱい書いてある喫茶店があった。電波系という言葉はここから発祥した。
  • AVで「美少女本番」というキーワードを世に初めて紹介した作品は「ミス本番・裕美子19歳」(84年)。
  • AV史上最も有名なタイトルは「SMぽいの好き黒木香」(86年)。
  • 「問題盗撮6」(86年)というAVは60分のうち20分以上が伝説のバンドじゃがたらのライブ映像。
  • 「その女、変態につき 樹まり子」(89年)のラストには「樹まり子は現在、日本で一番輝いているスーパーハードコア女優である」とテロップが出る。人呼んで「AV界の菩薩」。
  • ハメ撮りをメインにした初めての作品は「勝手にしやがれ」(88年)。
  • 「廊下は静かに 小森愛」(90年)というAVはクラスメートや教師から性的虐待を受けている小森愛が、ラスト10分、突然黒板に「ロックンロール」と書きなぐり、泉谷しげるの「春夏秋冬」を口ずさみながら全員を殴り殺していくという作品。
  • 代々木忠監督の「感じるビデオ・ドグ」(92年)は画面に幾何学パターンが延々と映し出され、合間にネガポジ反転された擬似フェラシーンが挿入、そして「力を抜いて、目を閉じて下さい」と代々木監督のナレーションが被さる、当時流行していたドラッグビデオの変種ともいえるAV。ハマれる人は本当に「超リアルな快感」を体験できたらしい。
  • AVギャルを山谷の労働者地区に送り込んだらどうなるかを撮ったドキュメントAV「ボディコン労働者階級」(92年)。
  • ビニ本ブームの時代、「女子便所シリーズ」が大ヒットしたG社という出版社の冬のボーナスはドラム缶の中の札束の掴み取りだった。
  • 「裏コミュニケーション」で出会う女子は揃いも揃って街で見かけないタイプ。延々と将来の夢「浜崎あゆみのような歌手になる」を語るジャンキーの年増女、昼はソープで夜は援助交際という生活を続け、初対面の男に泣きながら援交をせがむ超デブ女など。
  • 80年代後半、陰毛は絶対に見えてはならず、もし見えてしまったら修正が必要だった。修正といってもスミベタではなく、そのモデルの他の肌の部分を陰毛部分へ持っていくというコンピューター処理。印刷会社から配布された修正サンプルがグラビア班の壁に貼られており、そのサンプルに使用されていたのは子供番組でも活躍したキュートな女優さんだった。
  • オウムがハッキリとした形でマスコミに登場したのは、90年の衆議院選挙に幹部一同で出馬したときで、アニメソングまがいの歌を唄いながらコスプレまがいの衣装をまとって街頭で踊り狂う信者の姿を見て、これを究極の「シャレ」として受け取った。しかし、地下鉄サリンで「シャレ」ではなかったと知り、戦慄した。