「ニッケル・アンド・ダイムド」 バーバラ・エーレンライク 06年08月10日発行

  • 単純労働に支払われる低資金で、人はどうやって食べていくのだろう。特に、福祉改革によって労働市場に送り込まれようとしているおよそ四百万ともいわれる女性たちは、時給六ドルや七ドルでいったいどうやって生きていくというのだろう。
  • 現場に飛び込んで誰かが身をもって体験してみるの。私は新米ジャーナリストにやってもらうつもりだった。が、ラパムはなにやら不気味な半笑いを浮かべつつ、たった一言「ユー」と言って、慣れ親しんだ生活を私から奪い取ったのである。
  • 私の妹は低賃金労働から低賃金労働へ渡り歩く生活の中で本人言うところの「賃金の奴隷であることの絶望」と常に闘い続けてきた。夫は時給四ドル五十セントの倉庫係だったが、そこから抜け出して正社員に納まったときは、心底ほっとしたそうだ。
  • 私にとって、一日デスクに座って仕事をするのは、特権というばかりでなく、義務なのだ。生きている者も死んだ者も含めて私の人生にかかわった、言いたいことは山ほどあっても誰の耳にも届けることのできなかった人たちみんなに対して、私が負っている義務なのだった。
  • ルール一、職を探す時に学歴や本来の仕事から得た技能に頼ってはならない。ルール二、採用された中で、一番高給のものを選び、そこで働きつづけられるように最善を尽くす。ルール三、見つけられるかぎり最も安い住まいを選ぶ。
  • 私は貧困というものに何度も遭遇してきたから旅行気分で訪れてみたいようなものではないことは知っていた。そこに漂う匂いは、恐怖の匂いにあまりにも似ているのである。
  • ニューヨークやロサンゼルスのように、単純労働者がほとんど有色人種で占められるような大都会は敬遠することにした。そこで訛りのない英語を話す白人女が単純労働の仕事を探すというのは、なにやら捨て鉢な、あるいは不気味な印象を与えるだけかもしれないと思えたのだ。
  • 求人広告とは、低賃金労働者の高い移動率に備えるための、雇用側の保険なのだ。現在の従業員が辞めたり辞めさせられたりしたとき補充するために、求職者を確保しておきたいということである。
  • ウェイトレスをしていると、客は客というより世話すべき「患者」だった。母性本能が刺激されて、お粗末な環境が許すかぎりの「素敵なディナー」にできるだけ近い体験をしてもらいたいと思った。
  • メイドのユニフォームを着ていると、時給六ドルのコンビニの店員でさえ、私たちを見下しているように見えた。食堂では声をかけても無視され、スーパーマーケットでは周りの目が「あなた、ここで何しているの?」と明らかに言っていた。
  • 店の奥の従業員だけが行く休憩室の近くに貼ってあったポスターには「あなたのママはここで働いてはいません。自分の後始末は自分でつけてください」とある。
  • 二人の熟年女性が、しかも真面目によく働く女たちが、二六歳のうすのろ上司に見つからないようにと、服のラックの陰に身を潜めているのだ。
  • ウォルマートは従業員に正当な待遇を与えるより、新しい人をどんどん雇い入れることに熱心だ。毎日十人以上の新人がオリエンテーションを受けている。私たちは、知り合いにKマートの従業員がいたら引き抜くようにとまで言われているのだ。
  • プロジェクトが終わってから、知人から一緒に働いていた人に見破られなかったかと聞かれた。そこには教養人と労働者とでは拭いがたい違いがあるという思い込みがある。頭がいいとかで羨ましいと言われたなんてことはただ一度もなかった。
  • どの地でも引き払う時に同僚を選んでカミングアウトした。結果はいつもあっけなかった。「それってあなた来週の遅番はもう出てこないってこと?」と言った。驚いたり、憤慨したりしてもおかしくないのにと不思議だった。
  • 全国平均で、ワンベッドルームのアパートを借りるために時給八ドル八十九セント収入が必要で、一般的な生活保護受給者が「食べていける賃金」の職につける割合は、およそ九十八人に一人と見られている。
  • ワシントンの経済政策研究所が1998年に発表したところによると、全労働人口のほぼ三十パーセントが時給八ドル以下で働いているという。
  • 大企業の八一パーセントが採用前の薬物検査を義務付けている。最も検出されやすいのはマリファナで、摂取後数週間でも検出でき、ヘロインやコカインは一般的に摂取後三日で検出不能となる。
  • 雇用主はレストランの給仕係などの「チップをもらう従業員」に直接的に時給二ドル十三セントを超えて給与を払うよう義務付けられてはいない。時給とチップの総額が五ドル十五セントを下回る時は、雇用主はその差額を払わなくてはならない。だが、このことが従業員に伝えられることはほぼない。
  • 1980年代半ばから90年代初めにかけて、職場ではストレスが原因の障害や疾病が増えている。ストレスのレベルが高くなっているのは「ストレスによる管理」という新しい経営方式の影響であって、様々な業界の労働者たちが生産性を最大に引き上げるよう圧力をかけられ、健康を害するまでになっているのだという。
  • 1998年4月まで「トイレ休憩の権利」というものはなかった。ある工場労働者は、六時間も休憩をとることが許されず、制服の内側にパッドを当てて、そこに排泄していた。
  • アメリカの大手メイド派遣会社は「家が汚いということで喧嘩になる率が最も高い」時間帯である、土曜の朝九時から十一時の間に、勧誘の電話をかけることで、契約の三〇〜三五パーセントをまとめているという。
  • 「お宅のベビーシッターの行動を映像で記録するため」や「使用人を監視して窃盗を防止するため」に設計されたコイン大のカメラの広告が出ている。
  • 薬物検査を支持する声は多く、検査をすれば事故や欠勤が減り、健康保険への請求も少なくなり、生産性は向上するというのだが、そのどれにも裏付けはない。なぜ雇用主が実施しつづけるかというと、おそらく理由の一つとして、二十億ドル産業ともいわれる薬物検査業界が展開する広告事業があげられるだろう。
  • 賃貸料が「手頃」というためには、ふつう収入の三〇パーセント未満でなければならない。住宅アナリストのピーター・ドライアの報告によれば、賃貸住宅に住む貧困層の五九パーセントに当たる総計四四〇万世帯が、収入の五〇パーセント以上を住居費に当てているという。
  • 国が繁栄すれば手頃な住宅の数が減少するという残酷な皮肉がある。経済が強くなればなるほど、賃貸料を押し上げる圧力も強くなるのだ。一般に貧者と富者は、一方が安い労働力を提供し、他方が低賃金の働き口を提供するという、相互依存の関係にあったが、もはや貧者と富者は共存できなくなっているのであった。
  • 低賃金労働者の賃金は、二七年前の一九七三年に低賃金労働者が得ていた額にも届いていないのだ。
  • 七十年代は六十年代の過激派たちが何十人、おそらく何百人と工場に入り込んで、自らを「プロレタリア化」し、労働者階級を組織化しようと目論んでいた。大卒がブルーカラーに志願していた。
  • 私が育った環境では、黒人奴隷として生まれ教育者・作家となったブッカー・T・ワシントンばりの「やるからにはちゃんとやれ」というばかげた教えが支配していた。
  • 夫が女房は物書きなんだと駐車係のおじさんに自慢した。するとおじさんは「みんなそうだろう?」と答えた。字の書ける人なら誰もが書くわけだ。プロジェクト中に知り合った低賃金労働者の何人かは、日記をつけ、詩を書いていた。一人は長編のSF小説まで書いていたのだ。
  • 新しい用語と新しい道具と新しい技術をマスターしなければならない時、思ったほど優しいものは何一つなかったし、誰も「覚えが早いのね」とは言ってくれなかった。低賃金労働の世界では並みの能力を持った人間でしかなかった。
  • 経営側は「従業員ができると思うと、ますます従業員を利用し酷使する」から、少なくとも自分の能力を全部見せることは、絶対しないほうがいいというのだ。めざましい働きをしても、それが報われることはほとんど、あるいはまったくない。同僚に「みんながそうしろって言われるでしょ!」と叱られ、ある管理職が作業時間と作業動作の関連を調べにやってきた時は、どの仕事もほとんど関節炎患者並みのスピードに落とすことにした。
  • 私はテッドに「なぜ給料を上げないのか」と聞いた。「母親向きの時間帯にしている」と返ってきた。「これだけの得点を与えてやっているのに、給料の不満など言えるはずがない」ということらしかった。
  • 多くの雇用主が、無料の食事、移動手段の援助、店での割引など、賃金を上げること以外ならほとんどありとあらゆる譲歩策を講じようとする。その理由は、こういう臨時の出費なら、市場の変化で不要になった時に簡単に切り捨てることができるからだという。いつでも説明なしにやめることができる。
  • 求職者に余裕があるなら、雇用主側から提示された給料その他の条件を吟味し、経済ニュースなどを見て、それが他の地域や分野で出されているものとバランスが取れているかどうかを調べ、ひょっとしたら契約する前にちょっとした取引だってできるかもしれない。しかし、従業員募集の看板や求人広告に頼るしかないのだが、その大半が数字をあげることにひどく慎み深い。誰がどこでいくら稼いでいるかを知るには口コミしかない。
  • 経済市場アナリストは労働者が自分の所得を最大にすることを妨げる主な要素として「マネータブー」をあげている。個人の収入に関わることについては、沈黙の掟がある。私たちの社会では、他のことならセックスでも犯罪でも打ち明けるのにお金のことだけは誰も言いたがらない。このマネータブーは雇用主側にとっては大変利用価値がある。ウォルマートとすぐ先のあるスーパーマーケットの給料はどちらが高いのか、たとえ義理の姉がそのスーパーで働いていてもわからないことさえあるのだ。
  • ある女性はまったく同じ仕事をしている男性の同僚に自分よりかなり高い給料が支払われていると聞いて、昇給を要求し、解雇されたというのだ。労働者は給料について話をすることも他の人と比べることもまかりならぬと、はっきり規則を定めている所さえある。一九三五年に制定された全国労働関係法によって、従業員が互いに賃金を教えあったことを理由に罰することは禁止されているが、実際には、違法な解雇が相も変わらず続いている。
  • 低賃金の職場で私が最も驚き、また不快に思ったのは、基本的人権や自尊心をかなりな程度まで放棄させられることだった。初めてそういう場面に出くわしたのは、ウェイトレスになってすぐのころ、会社にはあなたのバッグの中身をいつでも改める権利があると言い渡された時だった。
  • もう一つ、屈辱を強いられるお定まりの行事として、薬物検査がある。下着姿になって介助者や検査官の見ている前でカップに排尿しなければならない。これは憲法修正第四条の「不当な調査からの自由」に違反しているのではと見られている。
  • 会社の方針に合わない言動をする人間は、勤務スケジュールや業務の割り当てなどで嫌がらせを受けたりする。解雇されることだってあるかもしれない。毎年一万人の労働者が、組合結成活動に参加したために解雇されているという。
  • 低賃金労働者が、経済学的ににいって必ずしも合理的な行動をとらなくても、つまり、必ずしも資本主義の民主社会における自由な人間として振舞わなくても、それは、彼らの置かれている立場が自由でも、決して民主的でもないからだ。低賃金の職につくときは、まず市民的自由だの基本的人権だのは自ら抑制し、ここがアメリカだということも、アメリカが当然擁護すると思われるあらゆることも忘れ去り、勤務時間にはただ口にチャックをして過ごすことを覚えなければならない。
  • ネズミやサルなどでは、それぞれ社会組織の中で低い地位に置かれると、脳の化学作用もその地位に適応し、人間と同じように鬱状態になるという十分な証拠があるのだ。いつも不安げで、臆病になり、脳内のセロトニンのレベルが下がる。そして、自己防衛のためでさえ、闘いを避けるようになるのだ。
  • 大人一人、子供二人の家族に必要な最低生活資金は年三万ドルで、時給だと十四ドルになる。これには健康保険も、電話料金も、認可保育所の資金も含まれているが、レストランでの食事代も、ビデオのレンタル代も、インターネットのアクセス料も酒代も、タバコや宝くじの代金も含まれてはいない。ショッキングなのはアメリカの労働者の過半数、およそ六〇パーセントに当たる人たちが時給十四ドルより低い賃金で働いていることだ。
  • なぜ富裕層は「現実が見えなく」なってしまったのか。その理由は富裕層が貧困層と場所やサービスを共有する機会がどんどん減ってきているという事実があげられている。余裕のある人々は子供を私立学校に通わせ、余暇を地域の公園ではなく、ヘルスクラブなどの公でない場所で過ごすようになっている。バスにも地下鉄にも乗らない。種々雑多な人々の住む地区を離れ、遠い郊外か、周囲をフェンスで囲った高級住宅地か、守衛のいる高層アパートに移り住み、流行りの市場細分化に合わせて、富裕層ばかりに訴えるように企画された店で買い物をする。
  • 「働く貧困層」と呼ばれる彼らはまた、私たちの社会の大いなる博愛主義者たちともいえる。他人の子供を世話するために、自分の子供の世話はおろそかにする。自分は標準以下の家に住んで、人様の家を完璧に磨き上げる。自分は貧苦に耐え、その結果、物価情報は抑えられ、株価は上がる。レストランの同僚だったゲイルが言ったように「ひたすら与えるばかり」の人たちなのだ。