「運命」 蒲島郁夫 04年10月05日発行

  • リンゴは強く握ると指の跡がつき、三日もすれば腐ってしまう。優しく掴み、速くもぎとるのが難しい。スーパーマーケットに行くと、野菜や果物を買い物客が無造作に指でつまんで鮮度を測っているのをみると、人事ながら心配で仕方が無い。
  • 「ピンクアイ」という、目が真っ赤になる伝染病にかかった牛の治療をした。殺虫剤のスプレー缶のようなもので、紫色の目薬をかけていくのだ。真っ赤な目の周りに紫色の目薬がべっとりとついた牛は可哀想だが、そうしないと目をやられてしまう。牛はピンクアイなどで死ぬことは無いが、餌の食べすぎで死んでしまうことがある。餌場に飼料を入れすぎると、食べたいだけ食べてお腹を風船のように膨らませて死んでいたりする。
  • 牧場での苦しい毎日と比べたら、勉強さえしていれば食べられる生活なんて天国みたいなものだ、と心のそこから思ったのだった。
  • 私の試験結果を知って、私の担当講師が何と大学のアドミッション・オフィサー(入試担当官)に直談判に行ってくれたのだ。「彼は素晴らしくやる気のある学生だから、ぜひともチャンスを与えるべきだ」と言って交渉してくれたという。アメリカには上から下まで「チャンスを与えよう」という精神がある。たとえば、ネブラスカ大学なら、高卒のネブラスカ州民であれば、ほぼ誰でも入学できた。勉強をしたいのならチャンスを与えよう、しかし、入学後の成績が悪ければ卒業はできない、というスタイルなのだ。たとえば、ネブラスカ大学なら、高卒のネブラスカ州民であれば、ほぼ誰でも入学できた。勉強をしたいならチャンスを与えよう、しかし、入学後の成績が悪ければ卒業はできない、というスタイルなのだ。
  • 先生は私を大切に扱ってくれた。若い頃には戦闘機に乗って日本に行ったこともあるといい、「もし、またアメリカと日本が戦争することになっても、お前だけは守ってやる」と、戦争体験者らしい表現で親愛の情を表してくれたものである。
  • 「百二十パーセントの準備」を目指すようになった時から、私は落ちこぼれ時代の自分とは明らかに変わった。
  • ストレートAをとって特待生になると、多方面からの奨学金が集まりだした。しかも、特待生には必修科目が課されない。四年間なら四年間で既定の単位数さえ取れれば、何を受講しようとかまわないのだ。
  • 当時、ハーバード大学の願書には、親の財産と、アメリカの名家出身かどうかを書く欄があった。
  • 私のいた旧稲田村と、隣の来民町及び中富村との合併話が持ち上がり、それに反対した親たちが子どもを登校させないという挙に出たことがあった。
  • 私たち測量班は面白くないから、自然にそれが態度に出てしまっていたのだろう。そんな私たちのところへやってきた先生の言葉は私には衝撃的だった。「発掘して棺を開ける喜びなど、そんなことはどうでもいいのです。歴史に残るのは君たちが計測するその数字、古墳の場所、高さ、幅、こちらの方なんだ。だから確かに地味な作業ではあるが、ちゃんとした良い仕事をしなさい」
  • カツドウ屋がくると、我が家の庭にスクリーンを張る。夜になると時代劇二本を上映し、入場料を取るのである。
  • 「エアグラム」という、折りたたむと封書になってそのまま出せる物を郵便局で大量に買い込んで、肉体労働で疲れきった夜でも手紙を書きつづけた。
  • ハーバードの博士論文は「ヘヴィー・ボンドペーパー」という三百年ほどは持つ特殊な紙にタイプし、間違っても修正インクで消してはならない決まりになっている。つまり、一字でも間違ったなら、全て打ち直すのである。