「ぼくたちの七〇年代」 高平哲郎 04年01月30日発行

  • 六〇年代の渋谷はジャズの喫茶店がある百軒店が中心の素敵な街だった。七〇年代の渋谷はパルコと西武劇場とジアンジアンがある公園通りが中心の活気のある街だった。八〇年代以降は、新宿、六本木、青山、赤坂と同様に他人の街になってしまった。
  • ソノ・シートとは朝日ソノラマ社が六〇年代初頭に出したビニール盤のレコード本で、ドーナツ盤サイズの真四角の雑誌をそれごと電蓄のターン・テーブルに乗せる、その月のニュースや有名人の声などが入っている。いわば聴く月刊誌。
  • 59年の3月に少年マガジンと少年サンデーが同日に発売された。漫画雑誌が週刊誌になるなど、夢のような事件だった。
  • 「無責任一代男」の青島幸男の詩の最後は「こつこつやる奴ぁゴクローさん」とあり、この文句は分別のつき始めた高校一年生を挑発し、結果として二年の浪人生活の引き金となった。
  • ある種の文化や芸術に対して自分だけがのめり込んでいるという選民意識の対象全般をサブカルチャーと呼ぶのなら、六〇年代も七〇年代もサブカルチャーは同じ意味を持つ。僕らの世代にとって八〇年代に生まれたテクノミュージックなんて、ボサノバ同様、新種のポップスの一ジャンルに過ぎなくても、彼らには立派なサブカルチャーだったわけだ。
  • サブカルチャーのメイン化で、僕の一番そばで体験したのは、タモリ、ツービート、所ジョージといった反体制とも言える面々が八〇年代初頭に次々にメイン・ステージを飾り始めたときだ。その時点で、それまでサブカルチャーと呼ばれたものが消失したと実感した。本来表に出られないようなネタが表に出てしまったのだ。
  • 中華料理屋のチーフコックに賄いに作ったカレーを試食させろと頼まれた。カレーを食べ終わると感想を言う前に腕を見せろと言い、僕の細い腕を裏にしたり表にしたりして「油物の経験は薄いな」と、曰く有りげな眼差しで言った。
  • 植草甚一のエッセイで英単語の順番をずらして別の単語にする遊びをアナグラムということを学んだ。
  • 渥美清はアフリカ好きで「アフリカの風は路地のあっちこっちにぶつかって吹いてくるような風じゃなくて、どーっと真っ直ぐ吹いてくるんです」と言った。
  • 五〇年代から六〇年代はジャズのレコードを聴かせる喫茶店がまだ全盛で、どの店もリクエスト中心に大型スピーカーから大音響でジャズを聴かせる。話していると「レコード演奏中はお静かにお願いします」と書かれたボードを持ってくる店もあった。
  • 「十二月にヒルトン・ホテルでやるイヤー・エンド・パーティーにロック・バンドを仕込んでくれ」さすが外資系だ。忘年会などという言葉は使わない。
  • マクドナルドの資料を渡され「いずれはチェーン化して立ち食い蕎麦のようにしてみせる」とハンバーガーをかけ蕎麦と思えと講義した。
  • マクドナルドの決定したコピーを目にした。「びっくりマックのウハウハバーガー」。コピーとかコンセプトという概念が全く判らなくなってしまった。
  • 1971年の秋に雑誌「アンアン」と「ノンノ」のグラビアは京都などの古都をモデル入りの写真で紹介し、アンノン族を生んだ。グラビアと同じ服を着て雑誌片手の旅が流行りだした。
  • 1971年の十一月「厚生省・医薬品等適正広告基準の改正」のお触れで「スポーツ選手、アクションタレントを宣伝に使い、薬の乱用を薦めるのはまかりならん」という趣旨が書いており、座頭市勝新太郎大塚製薬の栄養剤、武田薬品の「飲んでますか」の三船敏郎のCFが中止になった。王貞治リポビタンDはどういうわけか、その後もしばらく続いて翌年の夏に消えていた。
  • マリファナの葉っぱは赤ん坊の手のひらのようだ」
  • 1973年に赤塚不二夫は酒を飲みながら「最近、キートンの映画観てね、もうギャグってのは、五十年前に、全部出尽くしたんじゃないかと思ったんだ」と言った。38歳の若さで「もう欲しくなくなっちゃった。別に名前売ろうとも思わないし、お金も欲しくないし、やりたいことも何にもない。いつ死んでもいいって感じだな」と言った。
  • ジャズメンは病気になったりすると、ジャズ批評もする愛知県岡崎市の医師、内田修さんの病院にすることが多かった。入院といっても豪勢なもので、暇なときは先生のリスニングルームでレコードを聴いたり、時には自分の演奏の録音までする。旨いものを食べて、先生が暇なら、近くのゴルフ場を廻る。
  • 73年頃に「──と日記には書いておこう」なんてCMが流行った。
  • タモリはスナック「ジャックの豆の木」で筒井康隆に「身障者のターザンが宇宙遊泳をしているところ」というネタをリクエストされた。
  • タモリの看板ネタになる「四ヶ国語麻雀」。アメリカ人と中国人と韓国人とルールを覚えたてのベトナム人の麻雀。やがて大喧嘩になる。この仲裁に入るのが昭和天皇
  • 売れる寸前のゴダイゴのツアーの司会をタモリがしたことがある。
  • 井上ひさしタモリを「トニー谷の次に日本語を滅茶苦茶にした芸人」と評価した。
  • 東京12チャンネルで1978年にタモリを扱った偽ドキュメントを作った。タイトルは「涙と悔恨の日々」で、始まりは普通の眼鏡に地味な格好をしたタモリが電車で仕事場に向かう。社内の中吊り広告はタモリの重要な元ネタ。新宿駅で降り、コイン・ロッカーに向かう。「ロッカーナンバー1223、この扉が森田一義タモリに変える」。ロッカー前で着替え、髪型を七三からオールバックにし、サングラスをかけ、テレビ局に向かう。夜、仲間と飲み屋の小さな座敷で飲む。酔うほどに自分の仕事の空しさを知り、ついに彼は眼鏡を外して、見えない片目から大粒の涙を流す。「カット!」の声が入りタモリが大笑いする。「これもまたドキュメントである」という声が入り終わる。
  • 1980年にセブ島たこ八郎ウォークマンを聞きながら歩いていると、警官がウォークマンとピストルを交換しないかと持ちかけてきた。
  • 赤塚不二夫は本のあとがきを書くときに、文章が書けずにいたが「漫画の吹き出しがあれば書けるんじゃないか」とアドバイスされ、吹き出しを作って文字を書き出すと見事に書き上げた。