「夢のなか」 宮崎勤 98年12月10日発行

  • 1989年8月、私はひょんなことから再逮捕・超有名となる(マスコミが広く報道したのでかなり広く名が知れ渡った)。超有名人になったここいらで何か書いて出版するかと思うが、いかんせん、私には文章を書く才能がない。
  • 出版するのは私の夢だったのです。(あと、もっともっと有名になりたいというのも加わった)
  • 88年の暮れに最初に誘拐された幼女の自宅に「魔がいるわ」、三番目の被害者宅へ「(幼女の名前)→かぜ→せき→のど→薬→死」などと書かれた葉書が届いた。
  • 89年の二月に届けられた段ボールには「(幼女の名前)」「骨」「焼」「証明」「鑑定」などという拡大コピー文字も入れられており、後の「今田勇子」名の手紙と共に事件が劇場型犯罪などと言われる様相を呈することになるのであった。
  • 宮崎被告の部屋にあったというホラービデオが槍玉に挙げられ、そういうものを規制せよという声が全国に広がった。
  • 祖父が病院で亡くなった時、宮崎被告が愛犬の鳴き声をテープに録音したものを遺体の耳元で流し続けていた。
  • 死刑判決という結果以外に、裁判について何か感じたこと、気になった部分はあるでしょうか。「私はいつも頬杖をついているのだが、その日はどうして知らないがテーブルの無い所でイスに座らせられた。いつもはテーブルがあって頬杖をつけるのだがその日はテーブルが目の前に無くて唖然とした。普段の姿勢がとれないなんてこんな嫌なことはない。さてどうしようかと考え、最初『頬杖の姿勢は下向きだから、下の方を向くか』と思ったが、それでは首筋が疲れるのではと思い『そうだ、イスに背中を預けて顔を少し上の方へ向ける格好が一番楽だろう』と考え、そうした。もちろんこの姿勢は普段の姿勢ではない。何十分かかかってやっと慣れた。慣れなかったら、一体どうなっていたことだろう。手持ち無沙汰でいっぱいだったろう。よかった。
  • オウム事件について。「子供の頃に爆竹遊びだとかを体験したことのないような心寂しい人の心から起こるに至ったのではないか」
  • 事件で亡くなった女の子たちが夢に出てきて"ありがとう"と言った話があったが、その後も出てくるのか。「ある。嬉しそうに出てくる」
  • おたくという言葉にどんなイメージがあるか。「やっぱり丁寧な言葉使いで相手に話しかけるようなアウトドア感覚の人」
  • 宮崎「街中や路上を歩いていたりする私に人がわざと大きい音をたてて恐怖を与えたり、何もしていないのに私を人が睨んで恐怖を浴びせたり、急に遠くから人が追いかけてきたり、どこにいるか分からない得体の知れない(おっかない)力を持つ者が私に「流行っているものを持つ!(買え)」とか「流行っていることをする!(しろ)」とどこかから声で命令してくる」
  • 宮崎「高校を男子校にしたのは、小中学校とずっと人間種類2種類学校でずっといじめにあったから、今度は今までのタイプじゃないタイプの学校を必死に探した。もちろん人間種類3種類以上の学校などなかったから、残りの人間種類1種類学校というのを探した。女性が苦手だったわけではない」
  • 宮崎「母(形式的な母、偽者の母)は私に急に迫害の形相で迫ってきたし、父(形式の父、偽者の父)は私に急に危害を加えようと迫ってきた(私は父や母に何もしていないのにだ)。私はおっかなくなってワアッとなり、恐怖にかられ、恐怖のためにその後はどうなったか覚えていない。後で聞くところによると私がそいつらに暴行を加えていたとの話なんです。その話が本当だとすると、恐怖のため相手の攻撃を咄嗟に防ぐために咄嗟に手や足が出たのだろうとしか言いようが無い(第一、私は大人しい性格だったのだから)。
  • 宮崎「パンチラ写真等を何故持っていたか。私が好きなジャンルは、子供の頃見た子供番組だけなのです。それを地方での再放送を人に頼んで代理録画してもらうのですが、その際、相手の趣味がパンチラなら、私はパンチラの写真等を持ち合わせがないと交換条件が成立しないのです。だから私は都内の知人のパンチラ撮影に付き合っていくらか撮影するのです。私はこういったことに興味ないので「早く終わってくれ!」と嫌な思いで撮影という作業をするのです」
  • 宮崎「交換のために色々なジャンルの持ち合わせをしなければならないので、私のビデオテープの中に旅・パンチラ・プロレス・ロリコン・時代劇・温泉・アニメ・グルメ等ありとあらゆるジャンルが詰め込まれているのです」
  • 宮崎「私は人類が何歳からオナニーなるものをするようになるのかといった知識が無いので、捜査段階でも適当に「9歳からした」と言ったり「中学の頃からした」と言ったりしているのです」
  • 事件ファンからの手紙「宮崎さんのことは"個性を越えた個性の持ち主"であり、物に動じぬ自己を貫く人でもあり、ナイーブでとても素敵ですよ」
  • 事件ファンへの宮崎の手紙「貴方のビデオのリストを教えて! それから、貴方のビデオデッキのメーカーと名前は? そしてそれは普通のデッキですか、それともHiFi(音がいい)のデッキですか? 貴方は普段録画する時のモードは何にしていますか(標準モード、3倍モード、ベータツーモード、ベータスリーモードのうちのどのモードですか? または何のモードですか?)。貴方は留守録をしたことがありますか?(留守録というのは、目覚し時計のように、あらかじめビデオデッキをセットしておきそのセットした時間になると自動的に録画が始まりそして終わるというもの)
  • 事件ファンの手紙「言うまでもなく決してまともではなく人格異常である私は、小学校の頃から、友達と放課後、芸能人や男の子の話しなどしてる暇があったら、早く帰って浅間山荘事件の続報が見たかったのです。事件ファン歴26年の私は、グリコ森永事件以来、完全なものになってしまったのです(劇場型事件の第一報を耳にすると、まるで何かにとりつかれたようにワクワク、メラメラ……その上さらに犯行声明が出るともう、絶好調にメロメロになる……)
  • 宮崎「生命体を死なせてやれば、次の世界でその生命体は幸せになる」
  • 宮崎さんにとってこの世とはなんですか? 「次の世界の前の世界」
  • 90年4月5日、女からの手紙「好きになるにつれて宮崎さんのこと理解したいという思いが強くなった。助けてあげたい。抱かれたい」
  • 90年4月6日、女からの手紙「同情から始まった恋だけど、こんなに人を好きになって嬉しさを感じたのは生まれて初めて」
  • 96年3月2日、女からの手紙「私はあなたの婚約者です」
  • 97年11月20日、女からの手紙「貴方への手紙の出し方は、職場の同僚から教えてもらいました」
  • 手が不自由で、両手の手のひらを上に向けることができず、歩くと、両肘の横が身体にぶつかる。三歳か五歳くらいの時手の不自由に気づいた。お釣りがもらえないし、液体石鹸を使うときに不自由するし、ラジオ体操が上手くできないし、スプーンを下から持てないし、大便をしたとき後ろから拭く事ができない。父親に訴えたが笑い飛ばした。
  • テレビは話し掛けても答えないから、自分のように思える。
  • その子が「もう帰りたい」と愚図りたした。その後、車の中で動かないで横たわっていた。「生き返らないでね」と声を掛けた。
  • 押収されたビデオ5787巻のうち、「生体又は死体等を切り刻む残虐シーンのあるもの」「ホラー映画」と見なされるものは39巻、「ロリコン(アニメーションも含む)」と見なされているものは44巻。しかもその多くはTV放映された映画の類で、2時間ドラマのサスペンスの殺人シーンやとんねるずの「仮面ノリダー」の改造シーンを収録したものが「ホラー」に、また難病映画「震える舌」が少女が主人公故に「ロリコン」に分類されていたりするものだ。残るビデオは昔のTV番組、CM、プロレス、音楽番組と多岐にわたっている。
  • 評論家やジャーナリストの評価の対象となることについて大塚英志が訪ねた時、宮崎勤は「いつまでも評論されていたい」と答えた。
  • 家族否認症候群の特徴を、精神病理学者の木村敏は次の三つ群に分類している。①自己の由来ないし来歴に関する疑惑──貰い子妄想、別の人を実の親に見立てる血統妄想など。②人物重複ないし変身の体験──熟知している人物が瓜二つの別人に入れ替わったという替え玉妄想、自分の分身が何人もいるという自己重複体験。③愛を主題とする妄想体験──「超越者」に愛されている、など受動的に愛されているという主題を持った妄想。
  • 宮崎勤は、私たちが彼の上に、あるいは彼の回りに「見たい」と密かに思うものを、実に忠実にその通りに実現してくれる。かつて彼を介して「おたく文化」を論じた私たちは、その後、再び彼によって「精神鑑定」や「異常心理」を語り、さらに「バラバラ家族の病理」「解離性社会」、そしてついに「多重人格」までを語ることができた。(香山リカ
  • 弁護側も検察側も告白文や犯行声明文の緻密な分析が行われていない。とりわけ勤君イコール今田勇子を同定するための文体論や字体の憲章が全く行われていない。勤君は「あんな面倒っちいことはやらない」と言っている。
  • 東京拘置所では「差出人の住所氏名の記載が無かったり不十分だったりする手紙は被告人は元へは届かず、その手紙は約半年後に廃棄になる」という決まりがある。