「バカの壁」 養老孟司 03年04月10日発行

  • ある時、評論家でキャスターのピーター・バラカン氏に「養老さん、日本人は"常識"を"雑学"のことだと思ってるいるんじゃないですかね」と言われたことがあります。私は、「そうだよ、その通りなんだ」と思わず声をあげたものです。まさにわが意を得たりというところでした。日本には、何かを「わかっている」のと雑多な知識が沢山ある、というのは別のものだということがわからない人が多すぎる。(P17〜P18)
  • 現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることが出来るのだ」と思ってしまっています。(P19)
  • 私は林野庁環境省の懇談会に出席しました。そこでは、日本が京都議定書を実行するにあたっての方策、予算を獲得して、林に手を入れていくこと等々が話し合われた。そこで出された答申の書き出しは、「CO2増加による地球温暖化によって次のようなことが起こる」となっていました。私は「これは"CO2増加によると推測される"という風に書き直して下さい」と注文をつけた。するとたちまち官僚から反論があった。「国際会議で世界の科学者の八割が、炭酸ガスが原因だと認めています」と言う。しかし、科学は多数決ではないのです。(P24)
  • 「科学的事実」と「科学的推論」は別物です。温暖化でいえば、気温が上がっている、というところまでが科学的事実。その原因が炭酸ガスだ、というのは科学的推論。(P25)
  • ウィーンの科学哲学者カール・ポパーは「反証されえない理論は科学的理論ではない」と述べています。一般的に、これを「反証主義」と呼んでいます。(P25)
  • 進化論を例にとれば、「自然選択説」の危ういところも、反証が出来ないところです。「生き残った者が適者だ」と言っても、反証のしようがない。「選択されなかった種」は既に存在していないのですから。(P26)
  • 「個性」を発揮せよと求められるのは、子供に限りません。学者の世界でも同じです。学問の世界でも、やたらに個性個性と言うわりには、論文を書く場合には、必ず英語で書け、と言われる。学術論文には「材料と方法」という欄があります。論文を書くにあたっては、その言語も、「方法」の基礎のはず。ところが、学者の世界では大概、英語を共通語として、それを使うように求められる。一体どこが個性なのでしょうか。(P45)
  • 「私は、個性なんかを主張するつもりはございませんが、マニュアルさえいただければ、それに応じて何でもやって見せます」という人種。これは一見、謙虚に見えて、実は随分傲岸不遜な態度なのです。「自分は本当は他人と違うのですが、あなたがマニュアル=一般的なルールをくれれば、いかなるものであろうとも、それは私はこなしてみせましょう」という態度なのですから。こういう人は、ご自分のことを随分全人的な人間、すなわちあらゆる面でバランスがとれていて、何にでも対応できる人間だと思っているのではないでしょうか。(P46)
  • 少し考えてみればわかりますが、私たちは日々変化しています。ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言いました。人間は寝ている間も含めて成長なり老化なりをしているのですから、変化しつづけています。昨日の寝る前の「私」と起きた後の「私」は明らかに別人ですし、去年の「私」と今年の「私」も別人のです。しかし、朝起きるたびに、生まれ変わった、という実感は湧きません。これは脳の働きによるものです。(P52〜P53)
  • 生き物というのは、どんどん変化していくシステムだけれども、情報というのはその中で止まっているものを指している。万物は流転するが、「万物は流転する」という言葉は流転しない。それはイコール情報が流転しない、ということなのです。流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ。真理は動かない、不変だ、と思っていた。実はそうではなく、不変なのは情報。人間は流転する、ということを意識しなければいけない。(P54)
  • 昔の書物を読むと、人間が常に変わることと、個性ということが一致しない、という思想が繰り返し出てくる。『平家物語』の書き出しはまさにそうです。「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文から、どういうことを読み取るべきか。鐘の音は物理学的に考えれば、いつも同じように響く。しかし、それが何故、その時々で違って聞こえてくるのか。それは、人間がひたすら変わっているからです。聞くほうの気分が違えば、鐘の音が違って聞こえる。『平家物語』の冒頭は、実はそれを言っているのです。『方丈記』の冒頭もまったく同じ。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」川がある、それは情報だから同じだけど、川を構成している水は見るたびに変わっているじゃないか。「世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし」。人間も世界もまったく同じで、万物流転である。(P55〜P56)
  • 「男子三日会わざれば刮目して待つべし」という言葉が、『三国志』のなかにあります。三日も会わなければ、人間どのくらい変わっているかわからない。だから、三日会わなかったらしっかり目を見開いて見てみろということでしょう。(P57〜58)
  • 「君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう」と話してみます。この話は非常にわかり易いようで、学生にも通じる。そのぐらいのイマジネーションは彼らだって持っている。その桜が違って見えた段階で、去年までどういう思いであの桜を見ていたか考えてみろ。多分、思い出せない。では、桜が変わったのか。そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。知るというのはそういうことなのです。知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までと殆ど同じ世界でも。(P60)
  • ソシュールによると「言葉が意味しているもの」(シニフィアン)と、「言葉によって意味されるもの」(シニフィエ)、という風にそれぞれが説明されています。この表現はわかったようなわからないような物言いです。実際、ソシュールは難解だとされています。が、これまでの説明の流れで言えば、「意味しているもの」は頭の中のリンゴで、「意味されるもの」は本当に机の上にあるリンゴだと考えればよい。ソシュールも、やはり言葉の二つの側面に注目したのだ、と考えられます。(P76)
  • 日本人が好きな「世界は一つ」とか「人類みな兄弟」といったフレーズは、かつての共同体への幻想によって支えられている。なぜなら、共同体の論理を世界規模に拡大して考えている、ということなのですから。(P103)
  • 戦時中は、陸軍と海軍の両方で張り合って互いに主導権争いをしていて、その合間にアメリカと戦争していた、という笑い話があるほど。使える飛行機がもはや零戦しか残っていないという事態になっても、航空予算は陸軍と海軍で半々だった。その時も、現在、省庁間でやっている予算の取り合いみたいなことばかりやっていた。省庁あって国家無し、というのは、今に始まった話ではないのです。(P107)
  • こうした特殊な能力というのは脳を調べてもわかりません。わからない理由には、そういう調べ方が一種のタブーになっているから、という面もあります。が、最大の問題は、脳というのは非常に均質なものだということです。脳は人によってそんなに違うものではない。脳を構成しているのは、神経細胞とグリアと血管、それだけ。神経細胞というのは非常に大きな細胞です。(P127〜128)
  • よく似た例が物理学者ファインマンの著書の中にも出てきます。「一、ニ、三……」という風に時間をカウントする際、彼は本を読みながらでも正確に出来るという。それを聞いた彼の友人は、「自分は本を読みながらは出来ないが、お喋りをしながら頭の中でカウントをすることが出来る」という。嘘つけ、と思ったが本当だった。そこでこの友人に、どうやってカウントをしているのかと聞くと、「頭の中で日めくりカレンダーをめくっていった」と言ったそうです。(P138〜139)
  • 私がかかわっている保育園が、毎年一回、契約している芋畑に芋掘りに行く。ある日、そこに行ったら、隣に同じような芋畑があって、全部、葉っぱがしおれている。そこのお百姓さんに、「あれ、何ですか」と聞いたら、「お宅と同じで、幼稚園の芋掘り用の畑ですよ」「だけど、全部、しおれているじゃないですか。どうしてですか」「あそこの幼稚園用の芋は、子どもが引っ張ったらすぐに抜けるように最初から掘ってある。一遍、掘って埋め直してあるからしおれているんだよ」これでは詐偽です。(P158〜159)
  • 日本を始めとした先進国とは逆に、インドは、まったく合理化しないという方策をとっています。極端にいえば、鉛筆を落としても落とした人は拾わない。別にそれを拾う階層がいる。これは、最近の言葉でいうところの「ワークシェアリング」が行われているということです。実はカースト制というのは完全ワークシェアリングです。本来なら一人でやれるような仕事を細分化して、それぞれの階層に割り振っているのですから。インドではそういうワークシェアリングを固定してしまった。(P178)
  • 欲にはいろいろ種類がある。例えば、食欲とか性欲というのは、いったん満たされれば、とりあえず消えてしまう。これは動物だって持っている欲です。ところが、人間の脳が大きくなり、偉くなったものだから、ある種の欲は際限がないものになった。金についての欲がその典型です。キリがない。要するに、そういう欲には本能的なというか、遺伝子的な抑制がついていない。すると、この種の欲には、無理にでも何か抑制をつけなくてはいけないのかもしれない。(P184)