「これが答えだ!」 宮台真司 98年12月19日発行

  • 知り合いの売春女子高生からこういうファックスが来ました。映画『ラブ&ポップ』を見て、浅野忠信が援交少女に「君がこういうことをしてるときに、めちゃくちゃ悲しんでるヤツがいるんだ」と説教をするシーンで、自分は誰からも悲しんでもらえないということがはっきりわかって泣いてしまったと。自分が援助交際してることがバレれば、母親は泣くだろうし父親は怒るだろう。友達やボーイフレンドもショックを受けたり非難したりするだろう。だけどそれは悲しむのとは違う。自分の思い通りにならないで失望したり憤激してるだけ。あるいは自分が理解できない生き方を前にして自己防衛的になってるだけ。もし援交少女があの映画を見たら、家に帰って、死ぬほど悲しんでくれる人間を探すだろうけど、悲しんでくれる人がこの世の中に一人もいない現実に気づいて、援助交際をかつてよりも確信犯的に続けることになるだろうと。だからこの映画は、援交説教映画ではなく、むしろ援交推奨映画なんだと。(P20)
  • 僕が五七キロのときに九〇キロの女とセックスしたことがあります。ただこのときは穴がどこにあるかわからなくて手間取りました。穴に入っていなくても肉の間に挟まっちゃって素股状態(笑)。(P22)
  • 僕は中学・高校と男子校で、空手部に入っていたんですが、新入部員のときには先輩からいろいろ可愛がっていただきました(笑)。彼から愛撫の仕方とか、いろんなことを教わりました。指と指の間とか股の内側など、普段隠れていて見えない「内側」の部分はすべて性感帯だよ、とか。手をつないでしまえば指の間を愛撫できるからもうこっちのもんだよ、とか。いったん血行と神経を集めておけば、触らなくても、手を近づけたり息を吹きかけたりするだけでめちゃくちゃ感じるよ、とか。それからその先輩に全身なめられて、「宮台君はアドレナリンの匂いがするね。感じてるよ。チンチン勃ってるじゃないか」とか言われたり……。ですから女の子との初体験は、その先輩にされたことをそのまんま彼女にするだけでしたので、非常にスムーズにいきました。中学時代の三年間、中央線でよく男の痴漢にあいました。触るのが男でも、あの年代はすぐに変な気分になってチンチンが勃ちます(笑)。しかも男が男に触られてるんだと恥ずかしくて、女の子みたいに「この人痴漢です!」って言えないじゃないですか。だから触られ放題で、ずいぶん感じさせられました。それから中三のときに同じクラスにすごくキレイな顔した男の子がいて、授業中でもいつも彼のことばかりを見ていて、彼をこんなふうに愛撫すれば、こんな顔をするのかなあ、なんて妄想していました。僕にはゲイ的なところがあるのかもしれませんが、まだ今は、女性だけを相手にしています。女の子になることにも興味があって、小学校のときに女の子になった気分で空き地や女子トイレで座りションベンをしたり、いろいろしました。成人になって女装したときにもとてもワクワクしましたが、まだ今は、ドラッグクイーンになっていません(笑)。たぶん男として女を相手にしているだけで相当ヤヤコシイのに、さらに選択肢が増えるのが面倒なんですね。(P24〜25)
  • 僕は、女の子が興奮するほど自分も興奮するので、女の子のためにあれこれ工夫するのが好きです。工夫するほど興奮する。強姦ロールプレイとか3P(得の男二人×女一人)とか野外羞恥プレイとか。目隠しとか、縛ったり縛られたりもしますが、あんまり痛いのは好きじゃないです。だから鞭やローソクはちょっと……。(P26)
  • 学生時代と言えば野外プレイですね。都内のめぼしい公園はすべて。東大総合図書館のなかや屋上、安田講堂の柱の陰とか、社会学研究室とか、人のいない、でも人が来そうなあらゆるところでやりました。たぶん東大構内で最もやった男でしょう。(P26)
  • リプロダクティブ・ライツ、直訳すると再生産の権利ですが、子供を産むか産まないかを決める権利は、女にあるという考え方があります。(P36)
  • だけどその一〇年後には、今後は五〇枚ほどのテレクラの会員カードを捨てられる事件が起こりました(笑)。全然進歩してない。でも、以降テレクラ何十人切りの話とか母親とよくしました。テレクラ帝王の僕ですが、「あの母ありて、この子あり」だったという話。(P41)
  • 僕が東大に入学した七八年当時、ストーカーという言葉はなかったものの、どこの学科にも妄想的に女子につきまとう男が一人はいました。映画を見に行っただけで「僕のこと好きなんだね」とつきまとったり、「すれ違うたび、君は僕を意識して恥じらってるね」と書いた手紙を自宅ポストに直接投函したり。他大の友人にそれを話すと「さすが東大」と賞賛されました(笑)。実は東大以外にはこういう存在はあまりいなかったんですね。(P44)
  • 社会学で「コミュニケーション・メディア」と名づけますが、絶対に達成されることがありえないのに、人々が永遠にコミュニケーションできる課題があります。例えばエステ。痩せたら痩せたで「美的に痩せなかった」「ここの肉は落としすぎた」「ここはもう少し脂肪をつけなきゃ」と永久に達成されない課題です。教育現場での「心の理解」も同じ。六〇年代の「のびゆく可能性」(能力主義否定=平等主義)に代わって七〇年代に登場する「心の理解」(共感的理解=共同体主義)なる課題は、成功しても「もっと深く」「もっと多くの子供を」、失敗しても「もっと正しいやり方を」と永久にコミュニケーションできます。永久運動装置であるコミュニケーション・メディアにより、一定の社会制度とそれに結びついた個人的実存が担保される。(P46)
  • おもしろいのは、援助交際してる子たちに聞くと、出会った男が全員、自分の自慢をしまくるって言うんです。仕事、収入、車、持ち物の自慢をする。名刺を見せびらかしたりして、自慢された女の子は「へえー、すごーい」とか言ってあげるんだけど、心のなかで「バカかコイツ、かわいそう」って思ってる。つまり、当たり前といえば当たり前だけど、自慢は逆に「欠落の表れ」なんだと思うようになっている。(P48〜49)
  • 今まで続いた社会では例外なく、人は他人とのコミュニケーションを通じて承認されて、自尊心や尊厳を獲得してきました。そういう人は、自分が自分であることにとって、他人や社会の存在は自明の前提なので、「なぜ人を殺しちゃいけないのか?」などという疑問を抱きません。ところが昨今の成熟社会は深刻な承認の供給不足に陥り、一方で承認を求めて右往左往するACを、他方で承認から離脱する脱社会的存在を生んでいます。背後には、?郊外化を背景とするスキンシップ欠落、?学校化を背景とする子供を承認しない親の増大、?成熟社会の到来にもかかわらず上昇や支配を目指す古い価値観などがあります。処方箋は、幼少期からコミュニケーションを通じて承認を存分に与えられる経験を積んで、自らの尊厳と、社会や他人の存在とが、無関連にならないようにするしかありません。(P59)
  • すべてを母親に選んでもらった子は自尊心を「上げ底」されている分、セックスの場面で「上げ底された自尊心」のメッキが見事に剥がれます。実はいくつかの有名な家庭内暴力事件は、セックスの初体験に失敗したことがきっかけで、「母親のせいで失敗した」と正しく気づくことから親への暴力が始まっています。(P65)
  • 現在、僕は小説家・桜井亜美事実婚の関係にありますが、僕がそうするのは結婚届という紙切れが重すぎるからです。もし籍を入れたら、それなりのしがらみが僕の意志とは無関係にできるように感じてしまう。(中略)制度に守られていない分、絆は強くなる! 本当の絆には、結婚届などかえって邪魔!(P72〜73)
  • 社会学には互酬性という概念があって「人からしてもらったことをどこに返すか」を問題にしています。単純なのは「してくれた人に返す」というやり方。例えば親からの恩を親に返す仕方です。これはローカルな二者間で互酬(ギブ&テイク)が完結します。レヴィストロースという文化人類学者は、このタイプの互酬性を「限定交換」と呼びます。それとは別に、彼が「一般交換」と呼ぶ形があります。AさんはBさんに、BさんはCさんに、CさんはDさんに、DさんはAさんに渡すというようにグルッと回る。近親姦がタブーなのも、彼によれば、ローカルに互酬が閉じるのを避け、社会全体を経由しないと互酬が完結しない一般交換をするため。さもないと社会がバラバラになるというんですね。(P76)
  • メディア悪影響論は科学的に立証されたことがありません。九八年二月に英国政府が発表した過去二年間にわたる二〇〇人の被験者を使った実験でも、カンフー映画を見たあと、ロッカーをアチョーと蹴るような短期的影響はあっても、暴力的映像の長期的影響は認められませんでした。クリッパーの実証研究によれば、性的・暴力的映像は、あらかじめ性的・暴力的性向のある人間に引き金を提供するだけです(限定効果論)。むろん性的・暴力的メディアが溢れる社会環境全体が性的・暴力的な影響を与える可能性は否定できません。先進各国のメディア規制の根拠は悪影響論ではなく、「見たくないものを見ない権利」を保護するゾーニングに基づきます。これは「見たいものを見る権利」と裏腹だから、ハリウッドの映画会社は映像表現を生き残らせるべく、Vチップに基づくゾーニングを支持します。(P88〜89)
  • 六〇年代のオランダで、高校生を「クスリはダメだと一方的に説教する」「いけない理由を説明する」「いけないというメッセージは伝えないで是非を討論させる」という三つのグループに分けて麻薬教育を施し、追跡調査をしてみた。すると最も麻薬に手を染める割合が多いのは「説教グループ」、一番少ないのが「討論グループ」でした。ある程度周りにクスリをやる人間が増えてきたなら、クスリをやる人生とは自分にとって何なのかを徹底して考えさせれば、偶発的事情や同調圧力に負けてクスリに手を出す人が激減し、一部に確信犯的にクスリに向かう人が出てきても、全体としては威嚇教育に頼るよりも有効に麻薬経験者を減らせるということです(売春の場合も全く同じ)。(P92)
  • いじめる側に尋ねると一様に「おもしろいから」「楽しいから」いじめると言います。娯楽であるなら、他にもっと楽しいことがあればそちらに移行するはず。現実に都会は「第四空間」だらけ。ストリートがあり、クラブがあり、各種イベントがあり、楽しいことだらけ。そんな場所ではいじめがあっても一過性で、いじめに固執するヤツがむしろバカに見える。逆に田舎は、ストリートもクラブも各種イベントもなく、学校的なものに染まりきった学校・家・地域から逃れるすべがありません。だから永遠にいじめに固執する。(P97)
  • オーディションとか人材募集の広告で言われる「個性」とは、さほど真剣にあたらない凡庸な記号です。企業が「個性的な人材求む」と言ったって、みんなリクルートスーツを着てくるでしょ。そもそも「個性的な人材求む」という言い方が無個性。だったら人事課も「ロボット人間募集」とかすれば、ホント個性的な人間が来ますよ。(P104)
  • 僕の同世代教員に尋ねると、うまく怒れないのは、怒ったあとの関係がこわばるのを心配するからだと言います。取っ組み合っては仲直りする経験をたくさんしている僕には、この種の懸念はありません。そもそも人間の感情はそう持続しません。怒ったあと、何事もなかったようにニコニコしてりゃいいだけ。(P115)
  • まず自分で徹底して考えて、どちらを選ぶべきか結論が出るなら、占いは使わないほうがいい。徹底して考えても人知の限界を超える問題だったら、偶然に委ねるという意味で、占いを使うことには意味があると思います。要は「別れ道での棒倒し」。(P129)
  • 「人は皆寂しいんだと言う人間に限って、本人が一番寂しい」という大原則を相対化できないカウンセラーは例外なく「クズ」です。(P132)
  • 成熟社会では、かつてのような役割や権威のゲタを履けません。自分自身の正味のコミュニケーション・スキルで幸せになるしかない。そうなると、コミュニケーションの弱者が苦しいまま取り残されます。ダメなヤツは、自分をダメだと思うからコミュニケーションを踏み出せず、コミュニケーションでの成功体験が得られないので、ますますダメだと思う。自信があるヤツはコミュニケーションに踏み出せるから、成功体験を得やすくますます自信がつく。ダメなヤツはどんどんダメになり、うまくいくヤツはどんどんうまくいく。それが成熟社会の原則です。(P144)
  • 十九世紀の自由主義思想家ミルは、自由を「他人に不利益を及ばさない限り、愚行を含めて何をしてもいいこと」と定義しました。ここでの不利益とは今日的には「権利侵害」と解すべきものですが、こうした「共生を侵さぬ自由」を追求する立場がリベラリズムと呼ばれます。(P157)
  • ニーチェは意味が見つからないから良き生が送れないのでなく、良き生を送れないから意味にすがるのだと喝破しました。(P160)
  • 経済的な国力と結びついたプライドが脅かされてくると、パニくった人たちがいろんなことを主張しはじめます。「経済が落ち目になってきた今こそ日本文化の伝統を見直さねば!」なんて言うような人間が出てきたりとか。まあ無害である限りは勝手に言わせておけばいいんですが、こんな時代だからこそ、これまでになかった自由度、これまでになかった帰属の形式や尊厳の形式が許容され、摸索される傾向が強まるでしょう。このことは僕にとっては千載一遇のチャンスに感じられます。(P166)
  • 今から一〇〇年以上前に『自殺論』という本を書いたデュルケームという社会学者が、社会に犯罪者がいようが自殺者がいようが、そのこと自体は社会の常態であって、異常でも何でもないというおもしろいことを言っています。(P176)
  • 大学では映画サークルに入ったんですが、実は女子大と合同のナンパ・サークルで、東大生なら誰とでも寝るタイプの女の子がたくさんいた。(P195)
  • 僕は、女の子の見方と同じで、女の子のなかに入り込んで、女の子になって感じるんですね。僕は小学校のころから、アニメや映画のヒロインの女の子がいじめられたり拷問されたりする場面で、自分が女の子になり代わる想像をして、性的に興奮しました。今でも少しも変わりません。セックスするときも相手に生じている感覚を自分のなかで再現して興奮するタイプなんですね。だから女の子が興奮するのだったら、SM・露出・スナップ・レイプごっこ……何でもできます。そういう男を業界では「マゾ的サド」と呼ぶみたいです。(P196〜197)
  • 忘れもしない八五年の秋、当時大学院生だった僕が奥様向けの昼ワイドを見てたら、テレクラを紹介するコーナーを始まったのです。奥さんが電話すると、仕事の空き時間とかに部屋に入った営業サラリーマンなんかが電話をとって、そこから先はお互いのコミュニケーション次第でどうとでもなりますって。「これだ!」と思って、テレビの画面に映っていたテレクラの看板の電話番号をメモし、数時間後にはテレクラの個室にいました。新宿淀橋の「東京12チャンネル」という初の個室テレクラでした(テレクラ自体はその一ヶ月前にできた花園神社横のアトリエ・キーホールが最初)。会員番号は一〇〇番前後でしたから、僕は日本で一〇〇番目に個室テレクラを体験した男なんです(だから何なんだ)。(P198)
  • 数ヵ月もすると、僕の頭には、相手がこう出たら自分はどう出るといった会話パターンが徹底的に叩き込まれ、相手が喜ぶいろいろなセックスのパターンも修得しました。おもしろいように相手を乗せ、満足させられるようになると、それが、失われた自尊心の糧になりました。(P199)
  • 失恋の後遺症もあってか、愛の可能性を信じたり、愛されたいと思う自分がイヤで、自分を消去し、愛から解脱したいと思ったこともありました。だから、単なるナンパマシンやセックスマシンになりきろうとして、それに近づくほど癒されたりしたわけです。(P201)
  • 人類は長らく「意味」ではなく「強度」を生きてきました。どんな共同体にも祭儀や生贄儀式があるのはそのことに関係します。ところがキリスト教以降、あるいは少なくとも近代以降、「意味」(目的合理)が追求されるようになります。しかし人類史的には例外なのです。近代が成熟し、物質的欠乏の共有がなくなるがゆえに、夢の共有もなくなると、未来のために現在を、社会のために自分を犠牲にする「意味を追及する生き方」は廃れ、代わりに「今ここ」を楽しむ「強度を追求する生き方」が重要にならざるをえません。(P212)
  • 「所属による承認」欲しさに「長いものに巻かれろ」と同調圧力に負ける大人とは対照的に、個人的に不快なら直ちに所属を取り消す生き方が、若い世代に爆発的に増えています。でも彼らの個人的な表出行動のベースは決して近代的自我ではありません。複数の流動的な共同体に、ニ股三股四股かけて多元的に所属する連中が増えたからです。共同体Aから抜けても共同体Bがある。BがダメでもCがある。ってなわけで共同体が「代替可能なリソース」になったために、同調圧力に負けずに自己主張できるようになった。多元的所属を「好き・嫌い」とか「快・不快」といった感覚をベースに操縦する選択主体が「自己」と呼ばれるだけです。それで何の不都合も、他人の迷惑も一切ありません。(P222)
  • 各人の頭のなかに各人各様のミヤダイ、つまり「マイ・ミヤダイ」がいて、仮想問答をしているわけですね。「マイ・ミヤダイ」はメディアのなかの宮台真司を見て、各人がそれぞれに作り上げたイメージです。僕は、メディアに出ている宮台を「ミヤダイ」、現実の宮台を「みやだい」と呼んで区別しています。「ミヤダイ」は「みやだい」の操り人形みたいなもので、「みやだい」が「ミヤダイ」に人々を怒らせたり不安にさせるような言動をやらせているんですね。で、実際怒らせるような言動をさせると、ちゃんと「ミヤダイ」に対して怒ってくれるし、叩いてほしい言動をすると、ちゃんと叩いてくれる。(P224)