「若い小説家に宛てた手紙」 バルガス=リョサ 00年07月30日発行

  • トーマス・ウルフの本を読んでいて、次のような一節を見つけたのですが、この人は作家という仕事は体の中に虫が棲みついているようなものだということに気づいていました。「というのは夢、清らかで甘く、意味不明で忘却の淵に沈んでしまった少年時代の夢は永遠に失われていた。虫が私の心の中に入り込み、そこでとぐろを巻いて私の脳髄、私の精神、私の記憶から養分をとっていた。しかし、その虫もついに私自身の炎に包まれ、私の火で焼く尽くされ、長年の間私の命を蝕んできた猛々しく貪欲な野心の鉤爪でずたずたに引き裂かれたことに気がついた。しかし間もなく、脳髄、心臓、あるいは記憶の中の光り輝く細胞が夜も、昼も、毎日の目覚めの時も眠りにつくときも、永遠に光り続けていることに思い当たった。虫は私から養分をとり、光は輝き続けるだろう、どんな気晴らしも、飲食も、楽しい旅行も、女性も、その光を消すことはないだろう、死がその漆黒の闇で完全に私の生を覆い尽くすまで、その光から解放されることはないということに気がついたのだ。自分がついに作家になってしまったことに気がついた。作家としての人生を送ることになった人間の身にどのようなことが起こるのかを、ついに知ったのだ。」
  • カトブレパスというのは、足から自分の体を食い尽くして行く存在するはずのない生き物です。比喩的な意味で言えば、小説家もまた物語を想像するために足がかりになるものを探し求めて、自分の経験をかき回しているわけです。それは単に、いくつかの思い出がもたらしてくれる素材をもとに人物やエピソード、あるいは風景を再創造するためだけではないのです。作家は長く苦しいプロセスを経て小説を書いてゆくわけですが、いい作品に仕上げるためには意欲が必要であり、その意欲をかき立ててくれるものを記憶のなかに住んでいる住人のうちに捜し求めるのです。
  • 自分の生活体験を最大限に生かしてエピソードと人物を創造し、読み手が生きている世界から完全に独立した別の世界に身を置いているかのような錯覚を抱かせる、そのように語ることが作品に説得力をもたらす上で必要不可欠な条件なのです。小説が何ものにも依存せず、自立していればいるほど、説得力は強くなります。
  • フィクションと現実を分かっている距離を縮め、その境界を消し去っていくことで、読者に嘘が実は永遠に変わることのない真実であり、幻影が現実的なもののこの上もなく確かで揺るぎない描写なのだと思わせなければならないのです。これが偉大な小説のやってのけるとんでもないペテンなのです。つまり、フィクションというのは単なる虚構ではない、世界は偉大な小説が物語っているように、内面の深いところでいったん解体されたあとふたたび作り直された世界にはほかならないのだと私たちに信じ込ませなければならないのです。
  • 小説の文章が望ましい効果を上げるかどうかは、ふたつの特性にかかわっています。内的な一貫性と必然性がそれです。小説が語る物語は一貫性を欠いていてもいいのですが、小説を作り上げている言語は首尾一貫していなければなりません。そうしてはじめて、小説に一貫性が欠けているのは、一切の技巧を排して生の素材をそのまま取り出してきたからであるかのような印象を与えることができるのです。
  • まず自分の文体をさがし、見つけだすことです。すぐれた文学書をたくさん読まないと、豊かで伸びやかな言葉が身につきません。ですから、とにかく本をたくさん読んでください。自分の文体をもつというのは生やさしいことではありませんから、あなたがもっとも敬愛し、文学を愛することを教えてくれた小説家の文体をできるだけ模倣しないように心がけてください。
  • フローベルは文体に関して自分なりの理論をもっていましたが、そのことを知っておられますか? <モ・ジユスト>の理論がそれです。適切な言葉というのは、理念を過不足なく表現できる唯一の言葉のことです。作家はそれを見つけださなければならないのですが、どうすれば見つかったとわかるのでしょうか? 耳が教えてくれるのです。つまり、耳に快くひびけば、<適切な>言葉なのです。ですから、フローベルは自分の書いた文章を残らずラ・ゴラードのテストにかけたのです。彼は菩提樹の並木道まで歩いて行き、自分の書いたものを大声で読み上げたのですが、クロワッセの彼の小さな家のそばに今もその並木道<アラー・デ・ゴラード>が残っています。
  • どの小説でも、語り手は物語の空間においてなんらかの位置を占めますが、そうした関係を<空間的視点>と名づけることにしましょう。そして、それは文法の何人称を用いるかによって決定されるのですが、可能性は三つしかありません。(a)文法の一人称を用いた場合、語り手と登場人物が同一人物になりますが、この視点に立つと語り手のいる空間と語りの空間は重なり合います。(b)文法の三人称を使った場合、語り手は全知全能の存在になり、物語の中で事件が生起する空間とは別の、独立した空間に身を置いています。(c)文法の二人称「君」を用いた場合、語り手はその背後に隠れて曖昧な存在になります。物語空間の外側にいて、フィクションの中で事件を起こさせる全知全能の語り手の声になることもあれば、物語に巻き込まれたものの、小心さ、用心深さ、分裂症、あるいは単なる気まぐれで自己分裂を起こし、読者に語りかけると同時に自分自身にも語りかける語り手の声という可能性もあります。
  • 現実の時間、この時間と私たちが読んでいるフィクションの時間とが、無邪気にもつねに混同されているということをはっきりさせておかなければなりません。フィクションの時間は現実のそれとは本質的に異なる時間、もしくは異なった時の流れのことで、それはフィクションの語り手や登場人物と同様に創造された時間です。作者は小説の空間的視点と同じように、時間的視点の中にも自らの創造性と想像力をたっぷりそそぎ込みます。
  • 時間的視点とは、小説における語り手の時間と語られた内容の時間との間にある関係だということです。空間的視点と同じように、小説家が選び取ることのできる可能性は三つしかありませんし、それらの可能性は語り手が物語を語る動詞の時制によって決定されます。(a)語り手の時間と語られた内容の時間が重なり合い、ひとつになることがあります。この場合、語り手は文法的時制の現在形で語ります。(b)語り手は過去の時点から、現在もしくは未来において起こる出来事を語ることがあります。そして、最後に(c)語り手は現在、もしくは未来に身を置くことがあります。そして、(直接的あるいは間接的な)過去において起こった出来事を語るのです。
  • ブラジルとイギリスで書かれた二冊の現代小説──ジョアン・ギマランイス・ローザの『奥地』とヴァージニア・ウルフの『オーランドー』──を見ると、中心人物が突然性的転換に見舞われますが(いずれも男性から女性に変化します)、そのせいでそれまで<リアリスティック>なものに思えていた平面が空想的、幻想的な平面に変わり、物語全体が質的に変化します。いずれの場合も、転移はクレーター、物語全体の中心的な出来事になっています。
  • 語り手が物語りに説得力をもたせるために用いる別の手法がありますが、それを<チャイニーズ・ボックス>、あるいは<マトリヨーシユカ>と呼ぶことができるでしょう。民芸品には、同じ形をしたより小さなものが中に入っていて、次から次へと果てしなく出てくるものがありますが、それと同じように物語を構成してゆく手法のことを言います。
  • 『キホーテ』がシデ・ハメテ・ベネンヘリの手稿にもとづいて書かれたものだとすると、その構造はそこから派生した物語が少なくとも四つの層になっているマトリヨーシユカのようなものだと考えられます。すなまち(1)私たちにはその全体像がわからないシデ・ハメテ・ベネンヘリの手稿はいってみれば最初の箱であり、そこから直接派生した物語、もしくは子供にあたる物語というのは以下のようなものです。(2)つまり、私たちの目の前で繰り広げられるドン・キホーテとサンチョの物語がそれです。この子供にあたる物語の中に、性質の異なる孫にあたる物語(これが三つ目のチャイニーズ・ボックスということになります)が数多く含まれています。(3)サンチョが語る羊飼いの娘トラルバのところで触れたように、登場人物同士が語り合う物語がそれです。そして、(4)登場人物が読み上げる、コラージュのように組み込まれた物語があります。「愚かな物好き」や「捕虜」のように、それらを内包している物語全体と直接関わりのない形で描かれた、独立した物語がそれにあたります。
  • アーネスト・ヘミングウェイはあるところで、ものを書きはじめた頃にふと、肝心な出来事、つまり主人公が首を吊って死ぬというくだりを削除してみたらどうだろうと思いついたと語っています。以後、短編や小説においてしばしば用いることになるこの技法を、そんな風にして発見したのだ、とつづけています。ヘミングウェイのもっともすぐれた物語は意味深い沈黙、巧妙な語り手によって上手く隠蔽されたデータで満たされているといっても過言ではありません。語り手は情報を隠しますが、その隠された情報がかえって雄弁に語りかけ、読者が入手した材料をもとに仮定と推測を通して物語の空白部分を埋めて行かなければならないように想像力を刺激します。この手法を<隠されたデータ>と呼ぶことにしましょう。
  • 現代作家が派手な使い方をしているせいで近代の発明だと思われている手法、技法が実は小説の共有財産のひとつでしかない、というのも古典的な作家がすでにそうした手法、技法を自在に使いこなしていたからです。
  • 通底器というのはちがった時間、空間、あるいは現実レヴェルで起こる二つ、ないしはそれ以上のエピソードで語り手の判断によって物語全体の中で結び合わされることを言います。その場合、エピソードを隣接させたり、混ぜ合わせることによって、それらが互いに影響しあい、修正しあって、個々別々に語った場合とは違った意味、雰囲気、象徴などをつけ加えようという語り手の意図が働いています。言うまでもありませんが、この手法が機能するためには、単なる並列だけでは十分ではありません。物語の中で語り手が隣接させたり、ひとつに溶け合わせたりする二つのエピソードの間に結びつきがあるというのがもっとも重要なことです。
  • 親愛なる友よ、私が小説の形式に関してこれまで手紙に書いてきたことはきれいさっぱり忘れて、まずは思い切って小説を書きはじめてください、そう申し上げて筆を置きます。