「アイデアのつくり方」 ジェームス・W・ヤング 88年04月08日発行

  • 私はこう結論した。つまり、アイデアの作成はフォード車の製造と同じように一定の明確な過程であるということ、アイデアの製造過程も一つの流れ作業であること、その作成に当って私たちの心理は、修得したり制御したりできる操作技術によってはたらくものであること、そして、なんであれ道具を効果的に使う場合と同じように、この技術を修練することがこれを有効に使いこなす秘訣である、ということである。(P18)
  • かりにアイデアを作成する技術というものがあると仮定しても、誰もがそれを使いこなすことができるだろうか。それとも色感とか音感、トランプのカードに対する勘などと同じように、私たちが先天的にもって生まれなければならない、何かアイデアを作り出す特別な才能というものがあるのだろうかという疑問である。イタリアのすぐれた社会学者であるパレートの『心理と社会』という本の中にこの疑問に対する一つの解答が示唆されている。パレートは、この世界の全人間は二つの主要なタイプに大別できると考えた。彼はこの本をフランス語で書いたのでこの二つのタイプをスペキュラトゥール及びランチエと名づけた。この分類によるスペキュラトゥールとは英語の<投機的>というほどの意味の言葉である。つまりザ・スペキュラトゥールとは投機的タイプの人間ということになる。このタイプの顕著な特徴は、パレートによれば、新しい組み合わせの可能性につねに夢中になっているという点である。(P20〜21)
  • パレートはこの投機的タイプの人間の中に企業家、つまり財政や経営の計画に携わる人々ばかりでなく、あらゆる種類の発明や、パレートが<政治・外交的再構成>と名づけている活動に従事する人々をも含めている。端的にいえば、(例えばわが国のルーズヴェルト大統領のように)もうこの辺で十分だとうち切ることができないで、どうすればまだこれを変革しうるかと思索するあらゆる分野の人々がすべてこのタイプに含まれているわけである。(P21〜22)
  • パレートがもう一つのタイプを説明するのに使ったザ・ランチエという言葉は英語に訳すと株主<ストックホルダー>ということになる。(中略)この種の人々は、彼の説によると、型にはまった、着実にものごとをやる、想像力に乏しい、保守的な人間で、先にいった投機的な人々によって操られる側の人々である。社会構成グループの総括的説明としてのパレートのこの学説の妥当性をどのように考えるかは別として、誰しもこの二つのタイプの人間が現実に存在することは認めるにちがいない。この人々が本来そういうタイプに生まれついたものか、それとも環境や訓育によってそういうタイプになったものかということは、ここでは問題ではない。とにかく現実にこの人々は存在する。(P22〜23)
  • どんな技術を習得する場合にも、学ぶべき大切なことはまず第一に原理であり第二に方法である。これはアイデアを作りだす技術についても同じことである。特種な断片的知識というものは全く役に立たない。それはロバート・ハチンス博士が<急速に古ぼけていく事実>と名づけたものからできている知識だからだ。原理と方法こそがすべてである。広告について、活字の名前を覚えたり、製版にはどのくらい費用がかかるとか、無数にある出版物の広告料がいくらで、原稿締切日が何日であるなどということを覚えたり、学校の先生を狼狽させるほど文法や修辞に通暁し、放送会社の催すカクテル・パーティーでひけをとらないほど多くのテレビ・アーチストの名前を覚えたり──こういうことはやろうと思えばできないことではないが、こうしたことを何もかも知っていてもなおかつ広告マンとはいえないということもある。なぜなら、広告がその機能を発揮する原理と基本的な方法がまだ理解されていないからである。(P25〜26)
  • イデア作成の基礎となる一般的原理については大切なことが二つあるように思われる。そのうちの一つには既にパレートの引用のところで触れておいた。即ち、アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもないということである。(P27〜28)
  • 関連する第二の大切な原理というのは、既存の要素を新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性をみつけ出す才能に依存するところが大きいということである。アイデアを作成する際に私たちの心のはたらき方が最も甚だしく異なるのはこの点であると思う。個々の事実がそれぞれ分離した知識の一片にすぎないという人もいる。そうかと思うと、一つの事実が一連の知識の鎖の中の一つの環であるという人もある。この場合一つの事実は他の事実と関連性と類似性をもち、一つの事実というよりはむしろ事実の全シリーズに適用される総合的原理からの一つの引例といった方がよさそうである。(P28〜29)
  • いうまでもないが、この種の関連性が見つけられると、そこから一つの総合的原理をひきだすことができるというのがここでの問題の要点なのである。この総合的原理はそれが把握されると、新しい適用、新しい組み合わせの鍵を暗示する。そしてその成果が一つのアイデアとなるわけである。だから事実と事実の間の関連性を探ろうとする心の習性がアイデア作成には最も大切なものとなるのである。ところで、この心の習性は練磨することが可能であるということは疑いのないところである。広告マンがこの習性を修練する最も良い方法の一つは社会科学の勉強をやることだと私は言いたい。例えばヴェブレンの『有閑階級の理論』、リースマンの『孤独な群集』のような本の方が広告について書かれた大概の書物より良い本だということになるのである。(P31)
  • さて、この心の技術は五つの段階を経過してはたらく。(P33)
  • 五つの中の第一の段階は資料を収集することである。(中略)集めてこなければならない資料には二種類ある。特殊資料と一般的資料とである。広告で特殊資料というのは、製品と、それを諸君が売りたいと想定する人々についての資料である。私たちは製品と消費者について身近な知識をもつことの重要性をたえず口にするけれども実際にはめったにこの仕事をやっていない。(P33〜34)
  • この知識の習得には、モーパッサンが小説を書く勉強法としてある先輩の作家からすすめられたプロセスに似たところがある。<パリの街頭に出かけてゆきたまえ>とモーパッサンはその作家から教えられた。<そして一人のタクシーの運転手をつかまえることだ。その男には他のどの運転手ともちがったところなどないように君にはみえる。しかし君の描写によって、この男がこの世界中の他のどの運転手ともちがった一人の独自の人物にみえるようになるまで、君はこの男を研究しなければならない。>(P35〜36)
  • 私がこれまでに知り合った真にすぐれた創造的広告マンはみんなきまって二つの顕著な特徴をもっている。第一は、例えばエジプトの埋葬習慣からモダン・アートに至るまで、彼らが容易に興味を感じることのできないテーマはこの太陽の下には一つも存在しないということ。人生のすべての面が彼には魅力的なのである。第二に彼らはあらゆる方面のどんな知識でもむさぼり食う人間であったこと。広告マンはその点、牛と同じである。食べなければミルクは出ない。(P37〜P38)
  • 広告のアイデアは、製品と消費者に関する特殊知識と、人生とこの世の種々様々な出来事についての一般的知識との新しい組み合わせから生まれてくるものなのである。この過程はちょうど万華鏡の中で起こる過程に似ている。ご存知のように、万華鏡というのはデザイナー諸君が新しいパターンを探し出すのに時々使用する器具である。この万華鏡の中には色ガラスの小片が幾つも入っていて、プリズムを通してそれを眺めると、この色ガラスがあらゆる種類の幾何学的デザインを作り出すのである。クランクを廻すたびにこれらのガラスの小片は新しい関係位置にやってきて新しいパターンを現出する。万華鏡の中のこの新しい組み合わせの数学的可能性は甚だ大きく、ガラス片の数が多くなればなる程、新しい、目のさめるような組み合わせの可能性もそれだけ増大する。広告のための──あるいは、ほかのどんな──アイデアの作成もこれと同じことである。一つの広告を構成するということはつまり私たちが住んでいるこの万華鏡的世界に一つの新しいパターンを構成するということである。このパターン製造機である心の中の貯えられる世界の要素が多くなればなるほど、新しい目のさめるような組み合わせ、即ちアイデアが生まれるチャンスもそれだけ多くなる。大学の一般的教養科目の実用的な価値に疑問をいだいている広告料の学生諸君はこの辺のことをとくと考えて頂きたい。(P38〜40)
  • さて、諸君がこの資料集めという個人的な仕事、つまり第一段階での仕事を実際にやりとげたと仮定して、次に諸君の心が通りぬけねばならない段階は何か。それは、これらの資料を咀嚼する段階である。ちょうど諸君が消化しようとする食物をまず咀嚼するように。この段階は徹頭徹尾諸君の頭脳の中で進行するので、これを具体的な言葉で説明するのは前の段階よりも一層むずかしい。諸君がここでやることは集めてきた個々の資料をそれぞれ手にとって心の触覚とでもいうべきもので一つ一つ触ってみることである。一つの事実をとりあげてみる。それをあってに向けてみたりこっちに向けてみたり、ちがった光のもので眺めてみたりしてその意味を探し求める。また、二つの事実を一緒に並べてみてどうすればこの二つが噛み合うかを調べる。(P43〜44)
  • 諸君がこの段階を通りぬける時、次のような二つのことが起こる。まずちょっとした、仮の、あるいは部分的なアイデアが諸君を訪れてくる。それらを紙に記入しておくことである。どんなにとっぴに、あるいは不完全なものに思えても一切気にとめないで書きとめておきたまえ。これはこれから生まれてくる本当のアイデアの前兆なのであり、それらを言葉に書きあらわしておくことによってアイデア作成過程が前進する。(P45)
  • ここまでやってきた時、つまりまずパズルを組み合わせる努力を実際にやりとげた時、諸君は第二段階を完了して第三段階に移る準備ができたことになる。この第三の段階にやってくれば諸君はもはや直接的にはなんの努力もしないことになる。諸君は問題を全く放棄する。そしてできるだけ完全にこの問題を心の外にほうり出してしまうことである。(P46〜47)
  • だから、アイデア作成のこの第三段階に達したら、問題を完全に放棄して何でもいいから自分の想像力や感情を刺激するものに諸君の心を移すこと。音楽を聴いたり、劇場や映画に出かけたり、詩や探偵小説を読んだりすることである。(P48)
  • ほとんどすべてのアイデアがそうだが、そのアイデアを、それが実際に力を発揮しなければならない場である現実の過酷な条件とかせちがらさといったものに適合させるためには忍耐づよく種々たくさんな手をそれに加える必要がある。多くの良いアイデアが陽の目を見ずに失われてゆくのはここにおいてである。発明家と同じように、アイデアマンもこの適用段階を通過するのに必要な忍耐や実際性に欠けている場合が多々ある。しかしアイデアをこのあくせく忙しい世の中で生かしたいのなら、これは絶対にしなければならないことなのである。(P52〜53)
  • 以上がアイデアの作られる全過程ないし方法である。第一 資料集め──諸君の当面の課題のための資料と一般的知識の貯蔵をたえず豊富にすることから生まれる資料と。第二 諸君の心の中でこれらの資料に手を加えること。第三 孵化段階。そこでは諸君は意識の外で何かが自分で組み合わせの仕事をやるのにまかせる。第四 アイデアの実際上の誕生。<ユーレカ! 分かった! みつけた!>という段階。そして 第五 現実の有用性に合致させるために最終的にアイデアを具体化し、展開させる段階。(P54〜55)
  • 言葉はアイデアのシンボルなので、言葉を集めることによってアイデアを集めることもできるのである。辞書を読んでみたがストーリーらしきものなど気づかなかったというような方は辞書が短篇小説集であるという点を見落としてるにすぎないのである。(P62)
  • 「科学と方法」の中でポアンカレは豊かなアイデアにたどり着くのに必要なのは美的直観であると述べている。その美的直観をさらに分析して、ポアンカレは「これまでは無関係と思われていたものの間に関係があることを発見することが美的直観である」と言っている。これはパレートやヤングの「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせである」という考えをさらに具体化したものと言ってよい。(P78)
  • 豊かなアイデアを得るには天才の美的直観が必要である。これをもたない凡人が天才にせまる方法の一つが、KJ法に代表されるカードを使うデータの組み合わせである。(P78〜79)
  • こういう場合に役立つもう一つの法則があり、「パレートの法則」と呼ばれる。このパレートは先に出てきたイタリアの社会学者・経済学者のパレートである。この法則はまた「二〇パーセント・八〇パーセント法則」とも呼ばれる。その実例はさまざまである。たとえばある問題に関係して読まなければならない本が一〇〇冊あったとして、その上位二〇パーセントにあたる本を読めば、その問題全体の八〇パーセントを理解したことになる。ある機械の故障の原因が一〇あったとして、その上位二〇パーセントにあたる二つの原因をとり除けば、全体の八〇パーセントにあたる故障が起こらなくなる。ある会社のセールスマンの中で成績のよい上位二〇パーセントが、会社全体のセールスの八〇パーセントを行っている。ミーティングでは出席者の二〇パーセントにあたる人が、全体の八〇パーセントを占める発言をするといったぐあいである。(P79〜80)
  • この二〇パーセント・八〇パーセントといった数は問題ごとに違っているだろう。しかしこの「パレートの法則」のポイントは「大事なことを先にやれ」ということである。上位二〇パーセントにあたることを的確につかめれば、「パレートの法則」によって仕事の能率が今までの四倍にもなる。こうなると問題は「何が大事なことか」を見抜くことである。(P80)
  • デカルトによれば、人々はそれぞれの人生の大目標をもっており、その実現に全力をそそいでいる。しかしその一方で、人々は日常的な生活を生きなければならない。この場合に、その日常的なことがらの一つ一つについて熟考するのは面倒なことであり、頭脳と時間の浪費でもある。こういう場合には、最も常識的で最も穏健な意見にしたがうのがよい。どうでもよいことについては中庸の道を選ぶことによって、われわれは自分自身の人生の大目標に全力を集中しえる。(P81)