「テヅカ・イズ・デッド」 伊藤剛 05年09月25日発行

  • 「マンガ表現史の不在」には、必ず理由がある。それは、マンガ表現それ自体に埋め込まれたものだ。よって、本書の関心は必然的にマンガ表現そのものの解析と、そのためのモデルの構築に向かった。結果として見えてきたのは、手塚治虫を「起源」とすることで成立した「戦後まんが」という枠組みそれ自体が、表現史を書かせなくしているという構造であった。(P鄯)
  • 八〇年代後半以降、日本のマンガという表現ジャンルは、たいへん不透明な、見通しにくいものとしてあった。そのことがはっきり現れているのが、先の米沢の文章に代表されるような「マンガは衰退した」あるいは「つまらなくなった」という言説群である。/九〇年代半ばをピークに、これらの言説が盛んに行われたことは記憶に新しい。影響力もあった。その主張は論者によりさまざまであったが、マンガの刊行点数があまりに多くなり、またジャンルの幅が広がったことによって、ひとりの読者が全体を見通すことができなくなったことは、おおむね前提条件として共有されていた。だから「つまなくなった」のだ、と。/また、こうした言説に特徴的なのは、「何が」「どう」つまらなくなったのか、という記述がなされないままに、その状況論的な理由づけが同時に語られるという点である。これは、多くの論者が、その本来的な根拠──各々の論者が「マンガ」というジャンルに何を期待して、何が期待に反していたと思ったのか──を示すことはできず、ただ現状へのいらだちを「気分」として伝える以上のことをしていなかったということを意味する。しかし、その「気分」は、間違いなく広がりをもっていた。(P4)
  • (*読みの多様さについて)わかりやすいケースとして、「やおい」を愛好する女性を設定してみよう。彼女は『ジャンプ』が好きだ。同じクラスの男子とも回し読みをしているかもしれない。しかし、彼女にとっての『ONE PIECE』と、彼にとっての『ONE PIECE』は、もはや別の作品といっていいほどの開きがあるのではないだろうか。(P9)
  • まず「問題」とされるべきは、たとえば「ガンガン」系作品を、発行部数や内容にかかわらず、はじめから「マニア系」とカテゴライズし、そこで何が起きようとも、大勢とは関係のない、ごく一部のローカルな現象として取り合おうとしない態度であり、言説である。(中略)ある「メジャー」とされる一部のマンガ週刊誌よりも、「ガンガン」系雑誌の一部ははるかに売れていたケースもあった。ある「メジャー系」週刊誌は、二〇〇一年から〇二年にかけ、電車の中吊り広告やコンビニ置きなどの露出はあったものの、実売部数は一〇万部を切っていたという。他方、同時期の「ガンガン系」月刊誌には、三〇万部を越す実績を持つものがあった。しかし、それでも、一〇万部に満たない部数の週刊誌が「メジャー」とされ、三〇万部を越す月刊誌は「マニアック/マイナー」とされるのである。であれば、私たちがマンガについて言及する際(それは、批評や研究に限らない。日常の暮らしのなかでのおしゃべりから、出版車内の編集会議まで含まれる)、つい用いてしまう「メジャー/マイナー」の分割が、実は部数実績ではなく、表現の内実によって規定されているということになる。(P15〜16)
  • 一九六〇年代生まれより年長のマンガ論者のほとんどは、ほとんどすべての場合、ガンガン系作品群をまったく無視してきた。場合によっては、それは「なかったこと」とされる。少なくとも、「マンガ史」とは接続されていない。たとえば、『鋼の錬金術師』が、ヒットにより「発見」されたとしても、それは従来からの「少年マンガ」の枠で理解され、それ以外の「ガンガン系」とは別個の扱いをされる。これはマンガ評論という狭い業界の出来事ではない。「現場」の編集者の間においても、また一般の読者の間でも見られる。/つまり、ガンガン系の作品群・雑誌群と、それ以外のマンガの間には「断絶」が存在しているといっていい。彼らはガンガン系の存在自体は知っている。知っているが、たとえば「近年のマンガ」という主題で語る際には話題の対象から外す。それも、無意識的に除外されているようだ。もっといえばそもそも手に取ろうともしていない。さらに踏み込んだ言い方をすれば、ある一群の人々にとって、正確にはマンガをめぐる(私たちの)言説のある部分にとって、ガンガン系の作品群は「都合の悪い」ものとも考えられる。(私たち)マンガ評論はこれらの作品群をも包括してマンガを語る言葉を持っていないのである。(P18〜19)
  • 当事者である『少年ガンガン』編集長・保坂嘉弘は、次のように語る。『98コミックランキング みんなのマンガ』(監修・村上和彦、毎日新聞社、一九九八)に収録された「編集長10人、怒涛の大インタビュー!」での発言である。/うちはゲームの会社から出版を始めましたから、ゲームユーザーにゲーム感覚のコミックを提供しようというのがコンセプトですね。『ドラゴンクエスト』のコミック化はいまも続けていますし、(中略)オリジナル作品も、ゲームのリズムに合わせてテンポのいいコマ割りを心がけているんですよ(『98コミックランキング』八八頁)/(P20)
  • 単にマーケットや流通などの観点からだけでなく、表現のレヴェルでも、「ガンガン系」に代表されるような作品群には、それまでのマンガとは異なったものがあったということである。そして、それがもし決定的な変化であるとしたら、その評価はともあれ、表現史上の事件として扱われていいはずだ。(P22)
  • 七〇年代以降に生まれた若い読者の間からは「マンガ評論とは、(自分たちとは関係のない)昔のマンガについて語るものでしょう?」という声も聞かれている。これは「評論」のみならず、一般のマスコミや行政、教育などの場でマンガが語られる際にもついてまわる。そうした場では、マンガとは、五〇年代〜六〇年代に生まれた特定の世代の「読み」と受容に限定された表現であるように見える。(P31〜32)
  • 宮本(*大人)はマンガが少子化のなかで「それでも読まれている」ことを示す統計数字を示し、『ONE PIECE』の作者のもとに寄せられた読者の手紙を紹介する。それを元に、いま小学生男子の読者に『ONE PIECE』が「隅から隅まで食べつくし、何度も何度も反芻するよう」に読まれていることを指摘するのである。そして「そのように読む読者と作者との間の、幸福なコミュニケーション」の存在を示し、「尾田っち」と読者の熱いやり取りを見た後では、そもそも今までマンガ論が、「読まれ方」をいったいどの程度真剣に見つめようとしてきたというのか、と思わざるを得ない」と主張する。(P33)
  • マンガ批評誌『COMIC BOX』(ふーじょんぷろだくと)の特集「まんがは終わったか?」(一九九五年七月号)は、「つまらなくなった」言説の総決算というべきものであった。/同特集はそのタイトルとは裏腹に、七〇年代から続いた「まんが評論」のある部分の終焉を、はっきりと強く示すものだった。事実、すでに失速気味であった『COMIC BOX』誌は、この後、さらに失速した。刊行ペースが落ち、記事企画もマンガ以外のものが目立つようになっていった。また、この特集の時点ですでに、同誌編集長・才谷遼はマンガの新刊を「読めなく」なっていたと、編集部内で公言していたという。/同特集は、副次的な効果を持ってしまった。「マンガ専門誌」がこのような特集を行ったという「事実」が、一般にも伝えられ「マンガは衰退している」という気分を根拠づける役割を果たしてしまった。さらに『少年ジャンプ』の発行部数が減少を転じた(九六年)ことを論拠に、新聞メディアなども「マンガの衰退」という合唱に加える。二〇〇五年の現在でも、ともすればマンガのについてのメディアの論調には、「衰退」を前提とするものが見られる。『COMIC BOX』誌の特集は、内容においても、その影響力においても、九〇年代に猛威を振るった「つまらなくなった言説」を象徴するものといえるだろう。(P36)
  • 註2−4/「ぼくら語り」/七〇年代に興ったマンガ言説には、多く「運動」の色彩が強くあった。「ぼくら語り」と私が呼ぶものも、その一環としてとらえられる。村上知彦の以下の文章からは、当時の雰囲気を見て取ることができる。/「語られるべき「まんが」とは、おそらくぼくら自身のことなのだ。まんがについて語るということは、だから、まんがというメディアの機能を最大限に利用して、世界と繋がろうとする、意志である。まんがについて語るとき、ぼくは断固として「ぼくら」という主語を用いる。ぼくが語っているのは、まんがを通じて繋がりうる世界としての「ぼくら」についてであって、決してぼく個人の感傷や感想であってはならないと自身に言い聞かせている。(中略)まんがは、ぼくらに「ぼくら」になることを強要する。(村上和彦「すみやかに、そしてゆるやかに──まんがの可能性へのぼくらの歩み」、『別冊宝島13マンガ論争!』十四頁、宝島社、一九七九)/またマンガについて語る者に対しては、自身の人生とともにマンガ読者体験があるという「当事者性」が問われた。その閉鎖性はその初期より批判されてはいたが、マンガをめぐる言説の場は、八〇年前半以降、急速に「外部」を失い、「運動」の力点は言説からコミックマーケットのようなコミュニティへと移っていった。(P37〜38)
  • 七〇年代に興ったこの「運動」が、それまでになされてきたマンガ評論へのカウンターとして、マンガを「外部」の言説から「ぼくら」という当事者のもとに取り返すという動きとして始まったことは記しておいていいだろう。そこで、先行する、たとえば石子順造や藤川治水といった論者の仕事が参照されなくなったのである。また、「ぼくら語り」の比較的初期には見られた、分析的な枠組みを素直に摸索するような言説も、八〇年代前半を境に陰を潜めていく。結果、「自分語り」的な口当たりのよいエッセイと、あらすじの要約めいた簡単なレビュー、無邪気なファンに徹する感想、そして、書誌データや作家について、個別の評価を棚上げして列挙することを第一義とするようなものだけが「許される」こととなる。「ぼくら」は、自ら知的な枠組みを放棄し、あらゆる意味での方法論を捨てることを捨てることを自らに課したのである。結果、マンガについて語る者の多くは「自分」の言葉しか信用することができなくなり、何であれマンガについて考えるための参照項を見失ったのである。(P38〜39)
  • ぼのぼの』にいたる以前のいがらしは、表現に対してひどく自覚的であったといえる。発言は不遜ですらあり、作品は挑発的であった。たとえば性的なものや糞便などをギャグのネタにするにも、それらがなぜ「笑い」の対象とされるのかも含めたネタにするような、批評的な視線があった。そして、その批評的な姿勢は「四コママンガ」という形式そのものの解体にも向けられていった。/ここで、いがらしみきおの作家的評価から一度離れ、『ぼのぼの』を四コママンガというジャンルの流れに位置づけて見てみると、四コマというジャンルが二段階の展開を経た後に始められた作品ということができる。/まず起承転結というセオリーから離脱(いしいひさいち以降)があり、しかる後にドラマティックな出来事を語ることからの徹底した脱却がある。後者はいがらしみきおにおいては『ぼのぼの』を開始する以前、ニ年弱の休筆の直前(一九八三年頃)から盛んに試みられてきた。連載開始当初の『ぼのぼの』は、それをさらに進めたものと見ることができる。(P51)
  • 後に「物語はもう終わった」と語る作家が、自作の初回を、キャラがキャラとして成立する最低限の要素を提示することで発表したという事実。いがらしみきおは、マンガがおかれた環境に対して、自覚的にテクストを紡ぎ続けることを選択したのではないか。そのことをいまさらのように発見し、日本のマンガにおけるポストモダンの起点を、一九八六年六月の『ぼのぼの』の連載開始に求めることは、じゅうぶん可能だろう。キャラがテクストから遊離しだす時代的な指標として、『ぼのぼの』の連載開始を見ようというのである。このことは同時に、日本のマンガという表現空間への「モダン/ポストモダン」という分割の導入を意味し、日本マンガにおける「モダン」の存在こそを指し示す。(P58)
  • たとえば、あるマンガに対して「キャラはいいんだけど……」とか、「コマわりのテンポや間の取り方が……」といった「感想」がきかれる。であれば、「キャラ」、「コマ構造」、「言葉」のそれぞれがそれぞれに「快楽」や「リアリティ」を担っていると考えるのは、むしろ自然であろう。(P84)
  • (*さくまあきらは)剣豪小説などの一部の例外を除いて、文学作品が主人公の名前で記憶されることは少ない、というのである。すなわち、この一点をもって文字で書かれた「物語」との差異が強調されている。(P92)
  • あらためて「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる。/多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図象で書かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの/一方、「キャラクター」とは、「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの/と定義できる。(P95〜P97)
  • 論考の冒頭で、鈴木は『NANA』をめぐる自己の体験をこう語る。/「『NANA』を読んでいたら、やっぱり本当に好きじゃない人とは一緒にいるべきじゃないって思ったの」/というのが、彼女のさよならの言葉だった。突然の別れ話に僕は、ショックを受けるよりも前に矢沢あいの影響力ってすごいんだなぁと感心していた。(鈴木謙介「どうして恋をするだけでは幸せになれないのか。矢沢あいにおけるイノセント」特集:マンガはここにある・作家ファイル45。『ユリイカ』二〇〇三年十一月号、一〇〇頁。青土社)/(P98〜P99)
  • 「キャラ」の起源にはまだ検討の余地があると思われるが、日本においては、いちおう一九二〇年代の『正チャンの冒険』に求められる。そして、「キャラクター」の「起源」に「キャラ」があることは忘れられ、あるいは単線的な進化観によって、過去の遅れたものとして捨象された(いずれにしても忘却された)。いずれにせよ、「キャラ」から「キャラクター」への転換は、戦後、手塚治虫を中心に四〇年代後半以降、大きく進展したと考えられる。(P120)
  • さて、マンガ表現における「内面」の前面化は、第二次世界大戦後の手塚治虫において行われたと一般に考えられる。もっとも、それ以前にもその「萌芽」というべきものがあることは指摘されているが、兆候的な作品として一九四八年の『地底国の怪人』を挙げることに問題はないだろう。/『地底国の怪人』は、マンガで「近代的な悲劇」を描いた最初の作品とされ、「マンガで近代的な物語を語ること」はここからはじまったとされている。(P122)
  • 同作で語られるストーリーとは、科学少年、ジョン少年の発明による地球貫通列車の開発と、それをめぐる冒険の物語である。主人公はこのジョン少年だ。一方、ノートル大学では知能に優れたウサギが生まれ、これに改造手術を加え人間化がほどこされる。これが副主人公である耳男である。/大学から出た耳男は、ジョン少年と出会い、地球貫通列車の実験走行に加わる。地下深くには地底人の国があり、女王がいる。ジョンたちの一行は地底国に捕らわれるが、ハム・エッグを残して脱出する。/地底国の宝石に誘惑されたハム・エッグは、女王とともに地上に出て、陰謀団・黒魔団を組織して街を破壊する。その間、ジョンたちは地底に置き去りにしてきた列車の第二号の製作にとりかかるが、黒魔団の妨害に遭い、耳男の失敗の設計図を奪われてしまう。そこで生じた誤解のため、耳男はジョンたちの許を追われる。/そして、ジョンたちはどこから現れた「ルンペンのこども」の働きによって設計図を取り戻し、大学から来たという少女技師・ミミーの自己犠牲的な尽力によって第二号列車の走行実験に成功する。ミミーは全身に火傷を負い、瀕死の重症となる。実は「ルンペンのこども」もミミーも耳男の変装であることがわかり、耳男は「ジョン ぼく 人間だねぇ……」と言い残し死に至る。(P124)
  • マンガについて語られる際の「映画的」「文学的」という概念の曖昧さは、たとえば映画理論や近代文芸理論を踏まえた人々に「マンガについての語り」がいい加減で教養のないものという印象を与え続けてきたものでもある。だが、多くの「映画的」「文学的」という語の使われ方は、「映画」や「文学」にあってマンガにはないと思われていたものを、マンガの側がいかに欲望してきたかということの証左でもある。このマンガは「映画的」だからだめだ、「文学的」だからよくない、ということは決していわれない。また、そうした「映画的」「文学的」なものの「獲得」によってマンガ表現が一定の進展をしてきたこともまた、一面では事実である。さらに、マンガをめぐる素朴な「語り」に話を限れば、「映画」や「文学」それぞれの表現に個別の特性があり、各々の制度によって構築されたものであるということはほぼ顧慮されていないといっていい。そうでなければ、「マンガを文学の域に達するものにしたい」といった心証吐露はきかれないだろう。本来であれば「マンガ」と「文学」はそれぞれ別個の表現であるからだ。ここで、このように欲望されてきた「何か」とは、「映画」や「文学」が持っているとされる「リアリズムの獲得」ということはできるだろう。もう少し言葉をかえれば、映画や文学のように「リアルに」「人間を」描きたい、という欲望ということもできる。(P144〜145)
  • 単に『新宝島』などの手塚作品が「映画的」であったと指摘するのではなく、それをマンガの「起源」とする常識は、少なくとも一九六〇年代後半には組織されていた。たとえば西上ハルオは『ジュンマンガ』(一九六九、文進堂)で、まさに特集「起源」と題して『新宝島』の詳細な分析を行っている(「『新宝島』研究」)。『ジュンマンガ』はマンガ家を目指す後進の指導を目的とした冊子で、『新宝島』の分析においても、その語り口はたいへん啓蒙的なものであった。これを「起源」とすることは、六九年の時点ですでに「教養」として扱われていたのである。(P164〜165)
  • 手塚の「映画的技法」はたしかに斬新ではあったが、それはやはり、それまでになされたマンガ表現の蓄積のうえに花開いたものであった。決して、突然出現したものではない。/ではなぜ、藤子Aら当時の子供読者はここまで新鮮な衝撃を受けたのか。/宮本大人は、その理由を、戦争による切断に求める。一九四一年(昭和十六年)に内務省警保局が発した「児童読物改善ニ関スル指示要網」によって、マンガ出版の内容に制限が加えられ、さらにその後、戦争の激化とともにマンガ出版自体が困難となり、それまでの蓄積が絶たれてしまったために生じた空白に着目するのである。その「空白」のため、終戦後にはじめて「マンガ」を目にする年齢になった子供読者には、『新宝島』が突然現れたものであるかのように映ったと宮本は推測している。(P167〜168)
  • 時代劇や戦争ものなどアクションが見せ場となるジャンルの抑圧と、赤本マンガの出版そのものに対する強い風当たりにともなって、こうした表現における大胆な実験もまた抑制されざるを得なかったと見られる。/さらに、物資の不足によって、昭和十七年頃から児童向け出版物全体の出版点数や部数も減少していく。/「指示要網」は、具体的にいつ解除されたといった記録はなく、敗戦後、なし崩しに効力を失ったとみてよい。とはいえ、「指示要網」以後の十年近くを、「指示要網」の方向に沿った創作を続けてきたマンガ家たちにとって、戦争が終わったからといって即座に「指示要網」以前の奔放な表現へと回帰することは、極めて難しかったのではないか。実際、昭和二十年代前半における中央の大手雑誌に掲載されたマンガには、生活物が極めて多く、そうしたものを手がけていたのはみな「指示要網」以後の時代にマンガ家としてのスタイルを確立した世代であった。/手塚治虫は、そして『新宝島』は、そうした状況のもとに登場する。そして『新宝島』を熱狂的に支持した藤子世代は、「指示要網」以前のマンガ状況をほとんど記憶しておらず、「指示要網」以後の時代にマンガ読者としての自己形成をしていたと思われる。/こうして、『新宝島』の自動車が、絶対的な新しさの印象を、A先生に与えた理由が見えてくる。手塚は、「指示要網」以前のマンガにも当然親しんでいたと考えられ、かつ、『OH! 漫画』(大城のぼる手塚治虫松本零士晶文社、一九八二年)での発言などを見る限り、「指示要網」やそれに基づく統制そのものについては知らなかったと思われる。つまり手塚は、「指示要網」など知らないが故にそれを気にすることもなく、ある時期以降、マンガがつまらなくなったという感じを持ちながら、その不満を自ら解消するかのように着々とマンガを描いていた。そうして、いわば「指示要網」がなかったら、もっと早くに実現されていたであろうマンガ実現の進化を、ひとり自分の中で果たしていった。/そのうえで、他のマンガ家が、統制下に形成されたスタイルから抜けられずにいた時期に、統制以前を知らない読者に向かって、自分が戦時中に果たしていた進化を見せたいように見せていくことができた。(中略)『新宝島』の自動車は以上のように、その疾走が斬新きわまりないものに見える条件がうまくそろったところに走り込んできたのである。(宮本大人「マンガと乗り物〜「新宝島」とそれ以前〜」、霜月たかなか編『誕生! 手塚治虫』九五〜九七頁。朝日ソノラマ、一九九八)
  • 一般に、手塚治虫的な形式から、より「リアルな」劇画への移行は、絵柄や描線のスタイルの変化として記述されている(たとえば、夏目房之介手塚治虫の冒険』や奥田鉄人『鉄腕マンガ論』)。しかし、事態はそれだけではなく、絵柄や描線の変化に伴う、別の変化もあった。それが、ミディアム・クロース・アップや、人物の顔を枠で切るアップのようなコマの多用だったのではないか。こうした表現は、コマ=フレームという前提があってはじめて「リアル」なものとして機能する。理由は先に述べた通りである。そして、このコマ構造上の変化は、キャラ絵の等身を高くすることをたやすくする。つまり、絵柄や描線の変化とコマ構造の変化は、同時にしか起こりえない事象と考えられる。かつて、劇画家たちが丸っこい、児童マンガらしい手塚スタイルの絵柄から抜け出そうとして奮闘した営みには、絵柄だけではなく、マンガをマンガたらしめているコマ構造全体の革新も大いにあったのである。(P214)
  • 本書の問題意識は、マンガにおける「表現史」が、これまで書かれてこなかったということに一貫して向かっている。「表現史」が描かれなかったこととは、マンガが自律した表現としてとらえられてこなかったことと等しい。つまり、マンガという「表現」をそれ自体として取り上げ、その成り立ちを分析すること自体を阻害するものがあったということを意味する。(P248)
  • 小学校のころ、64〜65年ごろ、手塚治虫ってすでに古かったんですよ。あの頃、先頭を切ってた、ヒップなまんがというと、石森章太郎だったんですね。それから『少年マガジン』に劇画が流れ込んで、どんどん大人っぽいまんがが出てくるという状況だったんです。それが、七〇年代に入って『COM』で「火の鳥」を見たら、いままで古くさい、子供っぽいと思っていた手塚治虫石森章太郎と並んでて、しかもすごく面白い。それで「うわー! カッコいい!」ってなって、手塚が一気に自分のなかのトップに踊り出たんですよ。/(浦沢直樹インタビュー「まんが研究に期待すること」、『別冊ぱつ コミック・ファン12号』七四〜七五頁。雑貨社、二〇〇一年六月)/
  • いわゆる「パロディ同人誌」は七五年の『ポルの一族』(原典は萩尾望都の『ポーの一族』)を嚆矢とする見方が一般的である、その後数年のうちに広がっていった。(P106)
  • 註3−16/「キャラ盗み」/「結局似顔マンガなんだよね。昔のマンガ・ファンジンじゃこういうのはキャラ盗みって言われてバカにされたんだけど、今は逆にマネであることがわざとわかるように描いてる」(石清水了・桂木茉莉・遠藤昇「ファンジンは今!!」、『アニメック』第二三号、一六〇頁。一九八二年、遠藤昇の発言より引用)/この発言は、近年の「パロディ」には「作品としての意義」がないという文脈でなされている。ここから「キャラ盗み」という語がある程度の広がりを持っていたことが推測される。(P108)
  • 近代的リアリズムを「映画的」な方向で大幅に推し進めた大友克洋が、デビュー直前と、そのキャリアの最初期に「少女マンガ」を描いていたことは、あまり知られていない。これらの作品群は単行本に収録されておらず、大友が自らのスタイルを摸索する過程のものであるためか、作家自身が積極的に言及しないためであろう。しかし、デビュー前の作品(新人賞への投稿作である)は、後の作品と大きく異なり「誌的」と評されている。(P221〜222)
  • 少女マンガの特性として一般化されている(夏目房之介のいう)「多層的なコマ構成」の例として、萩尾望都の作品をあげる。一九七三年発表の作品『ポーの一族』からの抜粋である。/前章まで見てきたような劇画/青年マンガ群と大きく異なるのは、コマの枠線が取り払われたり、コマ同士が重なり合ったりするだけでなく、コマとコマの間にキャラ絵や文字が置かれたりすることである。/また、このような「多層的なコマ構成」では、「言葉」がまさに「誌的」な意味を持つ。それは登場人物たちの「内面」の饒舌ともいえる「語り」を呼び込む。(P228〜229)
  • 註4−35/萬画宣言/マンガが面白おかしくいだけでなく、多用なテーマが表現可能になったという認識から、「滑稽」や「おかしみ」といった意味あいを持つ「漫」を廃し、「萬」としたもの。「風のように…」『ビッグコミックスピリッツ』三五〜三六号、一九八九年八月、小学館初出。初出時は「M・A宣言」と呼称。同年一〇月『マンガ日本の歴史1』(中央公論社)への掲載時と、一九九七年三月、石ノ森章太郎45周年に向けての総合イベント「石ノ森萬画館」の際に二度改稿されている。/以下に初出時のものを引用する。/「マンガは“萬画”だ!/(1)萬画とは、森羅万象─あらゆる事物を表現できる万画です。/(2)萬画とは、老若男女、万人の嗜好に合う(愛される、親しみやすい)メディアです。/(3)萬画とは、一から萬(無限大の意あり)の物による表現形式。従って萬画は、無限大の可能性を含むメディア、とも言えるでしょう。/(4)萬画を英語風に言えば、Million Art(millionは一〇〇万ですが日本語の萬と同じく“たくさん”の意味があります)。頭文字を継ければ“M・A”です。/(5)“M・A”はまた“MA”NGAとも読めます。(P236〜237)
  • 註5−3/『追跡者』/「月刊IKKI」(小学館)連載。(二〇〇〇〜〇二)。「韮沢早」(にらさわすぐる)という知られざるマンガ家の軌跡を追い、検証するという体裁のルポルタージュ。韮沢は常に手塚治虫よりも少し早い時期に手塚とごく近い表現上の飛躍を見せたが、主に「早すぎた」という理由で作品が受け入れられず、埋もれてきたものと設定され、「韮沢作品」としてフェイクが多数制作された。竹熊のディレクションのもと、田中圭一吉田戦車浦沢直樹らマンガ家の手によるもので、手塚調、劇画調、少女マンガ、ニューウェーブ・コミックなど七〇年代までのマンガ表現を網羅したものであった。だが、そのように記述された「表現史」は、七〇年代後半のニューウェーヴ・コミック以降、急速に「マンガ」という形式そのものから離れ、あたかもそこで「マンガ表現史」が終わったかのようなものとなっている。(P255)