「感じない男」森岡正弘 05年02年10日発行

  • 自分は「ミニスカをはいた女の人が好きなのだ」と思っていたが、新宿2丁目の女装クラブの人が、ソファーからすっと立ち上がった、脚から腰にかけての線がまるで女性のようで、思わず欲情してしまった。男の人がミニスカをはいていても私は欲情してしまうのである。何故だろうか。
  • また、電車でミニスカの女性が座っていたとする。超ミニなので、どうしてもちらちらとふとももに目が行ってしまう。ところが、電車が駅に着いて彼女が立ち上がったときにわかったのだが、超ミニかと思われたのは実はスカートではなくキュロットパンツだった。その瞬間、私の欲情は一気に冷め、まるで地獄に突き落とされたかのような幻滅を味わうのである。
  • 女性にミニスカの話をすると、かなりの女性が、私のセクシュアリティのツボを理解していないことに気づく。「男がミニスカに欲情するのは何故だと思うか」と女性に聞くと、一番多い答えは「ミニスカだと脚が綺麗に見えるから」と言う。男は、ミニスカから露出した綺麗な脚に欲情しているということになる。そして、自分も綺麗な足になって、男の視線を浴びたいと思ったりするようである。しかし、私が実際にこだわっているのは、ミニスカからパンツが見えるかもしれないという、まさにその一点である。
  • スカートの下から女の性器が「見えるかもしれない」と思って欲情しているのではない。逆に、女の性器はパンツによって包み隠されていて「見えないに違いない」と思って私が欲情しているということなのだ。「いくら頑張っても、見えないに違いない」と思ってゾクッとするのである。
  • パンツが見えそうけれども見えないという状況が、我々に宗教的な感情を呼び起こす。チラチラと見えるのだが、決して手が届かない崇高なものの中に、人々は伝統的に「神」の姿を感じとっているからである。ミニスカの中のパンツが聖なる色である「白」で覆われてなければならない理由がここにある。白い布で覆われたものが、ミニスカの生地の端から見えたり見えなかったりするという光景は、何とも言えず宗教的な雰囲気に溢れているのである。
  • 男がミニスカに惹かれるのは、ミニスカの中に、パンツの形をとった何かすごいもの、この世を絶したようなものがちらちらと見えるような気がするからである。この時、ミニスカをはいている生身の女性は邪魔でしかない。ミニスカを凝視する男の視線が女にとって不快なのは、女がミニスカの娼婦として見られてるからではなく、ミニスカさえあれば生身の女はいらないという排除の視線だからである。
  • 射精は至福の体験ではない。射精は「あー、すっきりした」という排泄の快感でしかない。射精して感情が高ぶり涙を流す男はいない。腰が抜けたようになって立ち上がれなくなる男はいない。頭が真っ白になる男はいない。快感に痺れて呂律が回らなくなる男はいない。
  • 作家の梁石日「男の性はちょうど尿が溜まって小用がしたくなるのを我慢しているような状態になる。したがって放尿してしまえばすっきりするように、射精してしまえば男の性は一応おさまるのである」心理学者のライヒ「性行為は、嫌悪感を伴う排泄にすぎない」コラムニストのベンチュラ「射精とは、多くの男たちにとって、痙攣でひくひくする以外の何の感覚も伴わないような、筋肉の痙攣なのである」&「多くの男たちにとって、ほとんどの場合、射精には何の絶頂感も伴わない」
  • 男たちの猥談にはルールがある。どこそこのソープの女は良かったなどと自慢するが、その時の射精がどんな風に至福だったのかについては、ほとんど何も語らないのがルールである。女の身体の性能については詳しく語るのに、自分の射精の素晴らしい体験については語らない。
  • ほっておくと精液や精子や溜まっていって、定期的に射精して体外に出さなきゃいけないのだ、というのは間違い。科学的に見れば、使われなかった精子は、自然に分解されて、身体の中に吸収されてしまうのである。
  • 制服を着て歩いている少女に、売春を持ちかける男。制服少女のスカートの中を実際にのぞいて逮捕される男。これらの男は、生身の女のことを、歩く少女画像くらいにしか考えてないのである。
  • 男が制服に惹かれる理由。画一的で個性を消すから服装にこだわるフェティシズムを刺激しやすいという説。暑い日でも寒い日でも強制的に着せられている感じがよい、という意見。中高生の時期に限定されているから希少価値があるという意見。
  • 制服少女は青春時代のノスタルジーを刺激するという。制服少女の写真集でも放課後の教室や、体育館などが背景として使われるほか、古い民家や畳の和室などがロケ場所として選ばれている。
  • 学校は洗脳の場所である。中学校や高校は、柔軟性に富んだ少年少女たちを、経験をつんだ大人たちがよってたかって公然と「洗脳」する。子どもたちの頭の中を大人たちが書き換えるという、本来ならば極めて危険で後ろめたいことを、白昼堂々とできるのが「学校」なのである。
  • 制服少女の清涼感とゾクゾク感の秘密も、明らかになる。すなわち、制服少女を見たときに、「私はこの少女の頭の中身を書き換え、私のことを本気で好きになるようにマインド・コントロールし、メイドのようにし、メイドのように従わせることが許されているのだ。そういう危ないことを、誰からも非難されないし、この少女本人がそれを望んでいるのだ」という自分勝手な妄想こそが、制服少女の清涼感とゾクゾク感の秘密だったのである。
  • その洗脳の志願こそが「制服」なのだ。即ち、男たちから見れば、少女が制服を着て街を歩いているということは「私のことをあなたの好きなように洗脳してもいいのよ!」と公言しながら歩いているようなものなのである。
  • 洗脳の究極の形は少女と男の脳を取り替えることである。顔立ちの整った少女が制服を着てにっこりと微笑んでいる時、彼女は「ほら、私の脳内に入って私の体の内側から生きてもいいのよ」と言っているのである。精液は男と制服少女の掛け橋になる。制服少女へと放出された一筋の精液の掛け橋を伝って、男は少女の中へと入り込み、その少女の体の内側から生きようとするのだ.制服フェチは、射精によって締めくくられなくてはならないのである。
  • 制服フェチとは、少女の体になりたいとうことだ。その欲望の根底には「ごつごつとした汚い男の体から抜け出してしまいたい」という自己否定の脱出願望がある。もし少女の体に乗り移って、少女の体の内側から生きることができれば、新しい柔らかな肉体を撫でまわるだろう。裸の自分の体を鏡に映しながら、隠された全ての快感のスポットを探り始めるだろう。生まれて始めて、自分の体を愛する気持ちを知るだろう。自分自身の体を愛するとは、どのようなことなのかを、心の底から理解するだろう。
  • 「ロリータ」を書いたナボコフは、ロリータの年齢を十二歳と設定した。現在の日本の萌えキャラの中心年齢は十一歳と十二歳である。日本人女性の平均初潮年齢が12.5歳であり、ロリコンが妄想する少女の年齢と見事に一致している。ロリコンの男は少女が初潮を迎える年齢にこだわっている。つまり、少女が子どもを産める年齢になることを、待ちわびている。
  • 「牛乳を飲む少女」など、自然な形で性の暗喩が含まれている。この自然さが写真集を見る私たちの判断力を欺き、サブリミナルなメッセージを脳髄に染み込ませる。そのメッセージとは、この小学生の少女は、まだ子どもだけれども性的にOKなのであり、男の精液を受け入れる準備は整っているのだというメッセージなのである。
  • このような「仮面を被った少女ポルノ」が一般メディアに浸透していき、普通にテレビを見たり雑誌を見たりするだけで、それらの「仮面を被った少女ポルノ」から刺激のシャワーを受けてしまう。その結果、たとえ愛好家用の少女ポルノを手に入れなくても、少女に対する性的な感受性が知らず知らずのうちに開発されていくことになる。少女関連の商品が大きなマーケットを形成し、巧妙な刺激が次々と仕掛けられるようになり、社会全体のロリコン化が、とめどもなく進行してしまう危険性がある。
  • 数百人の少女たちに性的な悪戯をして、少なくとも数人を殺害したと言われているイギリスのロバート・ブラックという性犯罪者は服装倒錯や性倒錯の傾向があるか尋ねられ頷いた。女児用の服を着たことがあり、性転換の願望があるかとの問いに「女の子みたいにずっと着飾ってみたいとずっと思っていた」と述べている。ロリコンは犯罪者の心の中に「大人の男」にはなりたくなったという感情と、女の子に生まれていた方がずっと良かったという感情を発見している。
  • 目の前の少女に子どもを産ませたいという願望は少女の姿をした「もう一人の私」に、この私の子供を産ませたいという願望であることになる。それはまさに生まれ変わった私自身に他ならない。私以外の誰をも介入させずに産み落とされる、私自身。そしてその性交は女の子が思春期の分岐点のあちら側にカーブしたその時を狙って行われなければならない。何故ならその分岐の瞬間こそ、「男の体」という間違った方向へと舵を切ってしまった決定的瞬間なのであり、その分岐をこのような形でやり直すことによってしか、自己肯定のきっかけを掴めないのである。
  • ロリコンが最終的に目指しているのは、大人の女になる瞬間を迎えた可愛い少女の体の中へと乗り移り、その少女の体を内側から生き、その少女の体を内側から心行くまで味わい、その体に様々な服を着せて人々と交わり、人々から優しく大切に扱われ、自分で自分の体を真に愛することだ。そして少女の体の内側から、少女の子宮へと射精し、妊娠して自分自身を出産することだ。それによって母親の影響圏から最終的に離脱することができる。私は自分自身から生み出された存在となり、もはや誰にも隷属することなく、ここに完全な自由を手に入れる。少女の体という肉体上の理想を獲得し、自分の体を自己肯定し、精神上の自立という内面の自由をも獲得する。かくして世界は私を祝福し、私も自分自身を祝福し、世界は充足した私自身によってどこまでも満たされていくことになるだろう。
  • 女の子は初潮があったとき、母親が赤飯を炊いて祝う。そうやって出発できる。しかし、男は夢精があったという事実は黙殺され、一人で抱え込み、その結果、自分の体に対する否定的な感覚を植え付けてしまう危険性がある。
  • 男子も女子も中学生くらいになれば、経験なる大人がきちんと性の援助をする慣習があってもいいのではないか。教室で性教育をするだけではなく、しっかりとした自制心をもった大人たちが、実際にアドバイザーになりながら、性の悩みや難しさを語り合い、子供たちの性の発達や性行為を援助するという文化があってもいいのではないか。子どもたちが歪んだ身体感覚やセックスの仕方を覚える前に、大人の経験と失敗と教訓を直に彼らに伝えるということは、それほど荒唐無稽な話ではないと私は思っている。
  • 「性にまつわる感覚や行動は、生まれつき生物学的に決まっている」という考え方をフェミニズムでは「本質主義」と呼んで、警戒してきた。そこには「男はそういうものだから仕方がない」という開き直りしかでてこない。
  • カップルで楽しんで見れるエロチックな映画や小説を「エロチカ」呼ぶ。
  • ブラウンミラーは、ポルノのことを「レイプ同様、女性から人間性を奪い、女性を性の道具に貶めることを目的とした男の発明品」と述べている。
  • 第二次性徴とは、脳下垂体から性腺刺激ホルモンが分泌されて、子どもの体が、大人の体へと変化していくことである。少女の場合、乳房が膨らみ、体の線が丸みを帯び、お腹の辺りがくびれ始める。
  • 第二次性徴以前の男の子に女の子の服を着せると、可愛い女の子として通用する場合もけっこうある。かつては男の子に女性用の着物を着せて育てる風習もあった。
  • 映画館で映画を見ていると私の隣に男が座ってきた。その男は少しずつ私の下半身に押し付けてきたのである。よくわからず呆然としていると、さらに押し付けてきて、私の足をまたぐようにしてきたのである。慌てて席を立った。この体験をおかげで当分の間、電車などで隣に男が座ると、すぐさま席を立っていた。
  • 中国の道教の房中術(性技法)によると訓練すれば何度でもオーガニズムを得ることができる。体の中の気を養い性器の周辺の筋肉を鍛えて、射精しそうになったら筋肉で精液の流れを押さえる。そうすると、精液は放出されないのに、まるで射精したかのような快感だけを味わうことができる。何度でも射精の快感を味わい、ついには宇宙と合体するほどの快感を感じることができるのである。精液を外に出さないのだから、射精後の消耗感も味わわなくてもすむ。危なく漏れそうになったら、指で根本をふさぐといいとのことだ。
  • インドのタントラでも「射精」と「オーガニズム」を分ける。タントラの技法用いれば、望むだけ長くセックスでき、射精後も短い休息時間で再び勃起できる。その結果、熟練すれば宇宙と一体となるセックスができる。ただし、タントラでは射精をを物理的に止めることは推奨せず、それをすると病気になるという。セックスで射精したあとは、ペニスを女の中に入れたままでじっとしているべきで、その状態で呼吸を整えると、女の中に放出した性エネルギーをもう一度吸い上げることができる。
  • 代々木忠も「射精」と「オーガニズム」を区別した上で、男が男の鎧を取り外し、自分のエゴを崩壊させた時に、真のオーガニズムを体験できるとしてる。そして、地球上の人々がみんなオーガニズムを体験すれば、世の中はずいぶん住みやすくなるはずだと述べる。
  • サブカルチャー的な言説(オタクたちの雑談)を垂れ流して終わりにするという、若手知識人にありがちな態度だけは一度も取らなかった。