「コンテンツの思想」 東浩紀 07年03月30日発行

  • (*東浩紀発言)僕は、『ほしのこえ』の最初の「世界、って言葉がある。私は中学のころまで、世界っていうのはケイタイの電波が届く場所なんだって漠然と思っていた」というミカコの台詞がセカイ系的想像力の特徴をよく表していると思っています。そういう点で、新海さんの作品は、ポスト・ガイナックス、ポスト・エヴァンゲリオンの時代におけるSFとアニメの交差点にしっかりと位置している。(P18)
  • 西島(*大介) ただ、新海さんに対して、大塚英志氏や、徳間の大野さんといった人が「素晴らしい。泣ける。青春!」とか言っているのも僕わからなくて。いや、わかるんだけど、割と的を射ていない感じがしたんです。なんで『新世紀エヴァンゲリオン』にはあんなに怒ったのに、『ほしのこえ』はぜんぜんオッケーなのかなと。(P22)
  • 西島 ガイナックスが、ギリギリで編集しなきゃならない極限まで追いつめられた状況から出てきた方法こそが、『ほしのこえ』で新海さんが自然とやっている領域なんです。その意味において、新海さんはガイナックスの正統な子供というか継承者だと思うんですよ。(P29)
  • 西島 僕の絵がカワイイのは、ジブリ的な受け入れかたをしないと面白くないと思っているからです。いつだって『となりのトトロ』を描いているつもりです。だから、新海さんの今回の『雲のむこう』が取り組んでいる問題っていうのは、たとえば文芸誌『ファウスト』が今『ファウスト』を読んでいる人たち以外に届くかということですよね。(P43)
  • 西島 で、『凹村戦争』は、一つは新海さんを始めとしたセカイ系的なものに対するアンチテーゼなんですが、もう一つに、いわゆる9・11イラク戦争前後における政治的なもののたかまりに対してのアンチでもあるんです。/いちばん大きいのは河出書房新社の『NO!!WAR』なんですけど、アレを僕はダメだと思ったんです。いいけど、ダメっていうか。僕はガイナックスと同時に、一九九〇年代のテクノシーンにもかなり感化されていますから。要するに結局のところは野田努とか三田格とかあそこらへんの人たちが、戦争が起こったときに、レイブ・パーティーやクラブで騒ぐかわりに、戦争を持ち出して一回騒いだだけだって思っています。『現代思想』とかに載った後日談とかを読むと、ああやってよかったなみたいな話に落ち着いちゃって……あれ? それで終わりなのって。(P64)
  • (*西島発言)熱気バサラの「戦争なんてくだらないぜ、俺の歌を聴け」ですね。それくらいのめちゃくちゃさをもってやらないと世界に勝てないと思っていた。(P64)
  • (*東発言)これは佐藤心さんが言っていることだけど、村上春樹が、セカイ系の小説や一部の美少女ゲームが抱える妙な思弁性を準備したのは、おそらく間違いないと思いますよ。『AIR』の麻枝准村上春樹ファンだというし、新海さんもそうだったとなると、これは実際の影響関係としても論証可能かもしれないですね。(P72〜73)
  • (*東発言)戦争は、戦場に行くまでに長い時間をかけて心の状態を変えていきます。訓練やさまざまな儀式を通じて、日常の空間を離れて戦争の世界に入っていくことを教育/洗脳していくプロセスがあるから、人々は高揚感を得られる。一方いまの戦争は、ついさっきまで日常の空間だった場所でいきなり銃をぶっ放すわけで、高揚感が生じる余地はない。かつてのように戦争の美学化が機能しないということが、いまの戦争のリアリティだと思います。/美学化が機能しないというのは、別の言いかたをすると、物語が機能しないということでもあります。かつてだったら、我が国=日本が、敵国=北朝鮮をぶちのめすという大きな物語と、2ちゃんねる的なうわさ話はまったく切り離されていて、そのあいだを移行していく過程で、「おまえは日本人であるがゆえに一兵卒として、いまここにいる」と教育していくわけだけど、いまだったら戦場に行っても平気で2ちゃんねるに書き込んでいるのではないか。そうなったときにそれでも人を殺さなければいけないとしたら、人の心はどうなるのか、興味がありますね。戦地からの手紙は文学として高く評価されるけれども、それも戦場と日常のあいだに大きな落差があるからです。これがもし、戦場から携帯メールで親に連絡できるようになったら、事態は大きく変わる。(P100)
  • (*東発言)オタクって一般には身体性が希薄だと思われているけど、それは違っていて、たとえば彼らがガンアクションを見ているとき、彼らはやはり画面の動きや銃の音に身体的に反応し、快感を得ているわけです。美少女ゲームも同じで、ヴァーチャルな彼女に呼びかけると返事が返ってくる、そのときの快感は、それがリアル彼女でもキャラクターでもあまり変わらないと思うんですよ。それは突き詰めれば、身体的快楽の問題なんです。僕はアニメやゲームの多くは身体に働きかける作品だと思っていて、スペクタクルに「おおっ」となるのも萌えキャラに「萌えー」となるのも、サッカー場に大騒ぎをするのと本質は変わらない。そこにコミュニケーションはなく、ただ快楽=身体だけがある。(P101〜102)
  • 神山(*健治) 公安の仕事も変わっていって、オウムのときに、宗教の監視に仕事内容がシフトしたわけですけど、それがさらにサブカルのいろんなところにアンテナを張っていくような時代になるんでしょうね。(P106)
  • (*神山発言)現場を見ていても、いまクリエイト行為よりは、消費行為のほうがエレガントになってしまっているのかもしれないと思っちゃうんですよ。極端な言いかたをすると、いまほど消費者に対してプロのほうが頭悪く見えていることはないんじゃないかと。数人で創ったものを数万人が見るわけだから、数人がどんなに強度を高めても相対的には負けてしまう。(P108)
  • 神山 こっちが見落としているようなことも、万の単位の人が見ていたら必ずだれかは気づくやつが出てくる。それとの闘いの厳しさをここ数年感じてます。そこでむしろ設定とかを詰めない作品のほうがいまのトレンドなのかもしれない。ある種、破綻を予定調和として楽しむとかね。(P108)
  • 神山 僕が一〇年前にI・Gに入って、初めて石川社長と話したとき、生意気にも『攻殻機動隊』は押井さんのなかで一番よくない、ぜんぜん力を入れていない気がするというようなことを言ったんです。そうしたら、社長に誉められたんですよ(笑)。しかも、「それは事実そうなので、それを直接押井守に言ったら、おまえは評価されるだろう」とまで言われたわけです。(P120)
  • (*東発言)そういえば、いまから一〇年前に『エヴァンゲリオン』が流行ったときに、ヨーロッパ人の友人と話していて、『エヴァンゲリオン』がおもしろいというので盛り上がっていたんだけれど、ところで最近僕はアスカにはまっていて二次創作とかがんがん読んでるんだよ、と言ったらものすごく引かれた(笑)。彼にしてみれば、僕がなにを言っているのかわからなかったんだと思うんです。(P135)
  • (*東発言)『動物化するポストモダン』の初期の反応は、音楽に関心ある読者さんからのものが多かったんです。彼らは、僕の議論を、テクノやヒップホップで起こっていることとして理解したわけです。実際に「あの音像はキャラが立っている」という言いかたがあるみたいですね。(P119)
  • (*伊藤剛発言)一九二〇年代のフランスでアメコミを訳したときには、吹き出しを全部消しちゃって、枠の外にセリフとかを書いたわけです。絵は絵、字は字と厳格に分けた。それくらいヨーロッパでは絵と字がごっちゃになっている状態を嫌うんですね。この話の重要なポイントは「欧米」といってももちろん一枚岩ではなく、アメリカとフランスで差異があるということです。(P141)
  • (*東発言)「乳輪問題」ですね。(『涼宮ハルヒ』シリーズに登場するキャラクター「朝比奈みくる」の乳輪の大きさ──に象徴される作品そのもので描写されないキャラクターの特徴──がはたして作家側で設定されているのかどうか、読者のあいだでどれほど共有されているのか、という問題)。あるキャラクターのさまざまな性質について、人々の想像力がどれほど一致しているのか。その等質性がいま「キャラ立ち」の重要な要素であることは間違いない。(P168)
  • 新城(*カズマ) ただ、フラッシュアニメはある意味で落書きに戻っているわけだから、『テヅカ・イズ・デッド』の論法でいけば、それはそれで正しいかもしれません。不可逆時間を切り落としても成立するのが、まさにキャラであるとするならば。裏を返せば、まんが・アニメ的リアリズム(あるいはゲーム的リアリズム)の物語性は薄くてもいいというテーゼを突き詰めていくと、じゃあ物語はなくてもいいんじゃないのか、に到達するはずですよね。/東 それは正しいけれども、萌え4コマやギャグアニメしかない世界って……。/新城 そうなんですけど、ライトノベルもその方向で進化すると、四〇〇字一エピソードの単位で基本的に完結していて、それが連なっているのをどこから読んでもいいというものになるのではないかとか、最近真剣に考えています。(P186)
  • 東 おそらく、ライトノベルがキャラを立てることに集中化しているのは、現実解釈の枠組みが多数化して、コミュニケーションが島宇宙化が進んでいるいま、必然なんです。そこでは作者は、読者がその固有名を使って、どんな物語を勝手に紡いでもいいやとあきらめている。それは近代文学の基準からすれば幼稚にしか見えないけれど、実はその背後には、僕たちは物語りは共有できないけど、キャラクターは共有できるという薄い信頼感が張りめぐらされている。それは、大袈裟に言えば、ポストモダンの倫理だと言えないこともない。キャラクター小説をめぐる議論は、そこまで拡がる可能性を秘めていると思います。(P199)